【月夜】


いつも通りの闇の空に青白い月が浮かんでいた。
その姿はネズミにかじられたチーズのように、丸い形に小さな欠けた痕跡。
寂しげな光を漂わせながら、溶けていくように彼女の金髪に交わう。
「風情のない人ね…」
ゆらりと、しなやかな彼女の女性らしいシルエットが影の中で動いた。
「いいわ、相手してあげる…」
溜息にも似た甘い口調でそう言って、影の中で闇黒の翼が広がる。
彼女の口元には、優位に立つ者の余裕の笑みが零れ落ちていた…。


「…っ、うあっ!」
肩や背中を走った激痛にリリスは体の上体を起こす。
「あぁ!まだ無理をしないで下さい!」
その瞬間、柔らかい声がリリスにかけられた。
リリスは驚いた表情で顔をあげ、目の前に立つ金色の髪を持った青年を見つめる。
優しげな雰囲気を漂わせている青年だった。
後ろで三つ編みに束ねている髪を小さく揺らして、彼は膝をついた。
それから、ベットに座っているリリスにそっと水の入ったコップを手渡す。
「…大丈夫ですか?」
曇りのない真っ青な空のような瞳に自分の姿が映った。
「…ここは」
自分と青年のいる部屋の中を見回しながら、リリスはおもむろに唇を動かす。
「ここはどこ…?それに私は一体…何者なの?」
わけのわからない頭痛が襲ってきて、頭をおさえる。
「…記憶が…、可哀想に」
そんなリリスの様子を見て、青年は静かに吐息をもらした。
「私は、リリス…、リリス。だけど、何をしていたんだろう?」
リリスは一語一語搾り出すように吐き出しながら、一粒の雫を大きな瞳から零す。
「何か…、そう。…貴方は、誰?それから」
「僕はコルチェ。…どうか落ち着いてください」
零れ落ちた雫を拭ってから、コルチェと名乗った青年は優しく微笑んだ。
「貴女は3日前、街のはずれにある森の中で傷だらけで倒れていたそうです。
僕の相方がそんな貴女を見つけて、連れて帰ってきました。
3日間貴女は眠ったままで…、よっぽど恐い目に遭わされたんですね。記憶を失うほどに」
(…記憶を失うほどに)
コルチェの言葉をぼんやりと聞いている内に、急に肩が震え始める。
小刻みな振動は、肩から手へ、指先へ。
そして、全身を襲っていった。
「…あ、あっ…!何が、私はっ」
涙が溢れては零れる。
声の震えも酷く、リリス自身、その意味のわからない震えに混乱するだけだった。
「…大丈夫。もう大丈夫ですから」
「…あ」
優しくて、それでいて力強い口調でコルチェが言葉を紡いでくれた。
温かい彼の腕がそっとリリスを抱きしめる。
(…あたたかい)
涙の流れが静かに止まった。

コルチェは穏やかな笑みを浮かべながら、そっとリリスから触れていたものを離した。
「もう少し、ゆっくり休んでください…ネ?」
温もりが離れなかった。
言葉からも感じる温かさがそっとリリスを包み込む。
「…それでは、僕は」
軽く会釈してから、コルチェは部屋を出て行った。
扉の音が閉まる音が完全に消えてから、リリスはそっとベットの横の窓の外を眺める。
闇の中に輝く白い月だけが、妖しいヴェールに包まれながら微笑み返してきた。
(…私は何をしていたんだろう)
背中の傷が痛い。
(…ここに、何かが在った気がする)
背骨に指を触れながら、リリスは月の光を浴びていた。
彼女の金髪はそっと月の光と交わうように小さく震えた。


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