第五章、『処女姫』―後編―




ジェイはゆっくりと瞼を上げて、重い溜息だけを吐き出す。
凍った様な空気は鉄のような成分を含んでいた。
口の中に入っては苦々しい味を思い出させる。
頭痛がした。
嫌な記憶をフラッシュバックさせる。

「ジェイ…」

ぼそりと小さく誰かの音色が落ちた。
ジェイはいつものリズムよりもワンテンポほど遅れた後、首をゆっくりと捻る。
「……」
虚ろな瞳から放たれる視線が空を横切り、悪友へと向けられた。
「…大丈夫か?」
ヴァインはそれしか言えずに苦笑する。
大丈夫なわけはないだろう。
表情を見なくても、全体を覆う雰囲気が黒い。
だが、そういうしかなかった。

「だから」

おもむろにジェイは口を開く。
「だから、嫌な予感がすると言ったんだ…」
その言葉にまた苦笑した。
ヴァインの表情にまたジェイも眉頭を歪め、口元にだけ笑みを作った。
二人はその後、視線だけで会話すると、お互いに息を呑む。

「…さて、どうするか」







「……」
無言で自分を見つめる人形のような彼をサルマスは見上げていた。
「アルディオン…か」
「……」
こくんと頷き、アルディオンはそっとサルマスの頭を撫でた。
「…どうしてだろうな」
降り始めた雨粒のようにぽつぽつとサルマスだけが言葉を紡ぐ。
「本当のわしに戻ることは…この永遠不滅の魂を終わらせるということなのに…」
「……」
「…戻りたいと」
サルマスの大きな瞳から涙が零れ落ちた。
「お主に戻りたい…」
呟きを受け取って泣き崩れたサルマスの手を取り、アルディオンはそっとつけていた仮面を外す。
その表情は目の前にいる少年と顔の作りの良く似た美しい青年だった。


『最後の鍵よ、今…開け』







「クローズ…っ」

ルディは廊下を忙しなく走る鼠男の背に声をかける。
しかし、彼はわざと無視をしているのか…一向に振り向かなかった
ただぶつぶつと何か呪文めいたことを口にして、廊下の角へ姿を消す。
「…っ」
ルディは追いつけなくなって、廊下の冷たい壁に身体を押し付けた。
石の壁の感触はひやりとした悪寒によく似ている。
どこもかしこも埃っぽくって、目に痛い。
先ほどのように誰かが忙しなく走るだけで、細かな塵などが舞い散るのだ。
「…おい…」
「あれ…、処女姫じゃ…」
丁度幾つもある廊下の角から顔を覗かせたのは、薄汚れた海賊の男達。
「…いい女だなぁ…」
「噂どおりの…なぁ」
淡雪のような髪と宝石のような瞳の色。
誰をも寄せ付ける雰囲気にかみ合わない神秘的な容姿だ。
「…だが…近づかないほうがいい」
「あぁ…」
男達は首をそろえて頷いく。
その低い音は壁にもたれているルディの耳にも届いていた。
「…処女姫に手を出せば…殺される」
「それどころか、地獄にすら堕ちることはない…」
男達の会話が耳障りで仕方がない。
ルディは必死に耳を押さえようとした。
だが、その時…
その中の一人から信じられない言葉が漏れる。
「…創世記の女神に似ているな…」
ぼそりと漏らしたのは誰かわからない。
ルディははっとして、廊下の隅に目をやった。
男達はその視線に気づいたらしく、慌てて逃げ出す。
ルディが追いかけようと想ったときには、もう誰も残ってはいなかった。

「……」

首の1という数字に手を伸ばした。
無言でその数字に触れ、緩やかに髪を揺らす。
頬をそっと涙の雫が流れた。

『1』というのは『処女姫』という意味だ。

だが…

数多くいた奴隷達の中から、彼はルディを見出した。

彼女を一目見て、彼は驚いたような表情をする。
そう…とても驚いたような表情だった。

そうして『1』という数字の烙印を押す。

彼は私だけを抱かず
彼は私だけを殺さず

…どうして?



ルディの疑問は大きくなって、混沌としていく。

…その夢の前には…きっと、綺麗な衣装も宝石も意味はなかったんでしょうねぇ』

答えを知っていた人はもう…。


『女神が人間の男たちに汚された。女神は泣き崩れ、この地に涙の粒を落とした。それが河となり海となり、今の世界はできた』


あの詩のような物語は誰が作ったのだろう?
創世記の女神…。





「私は…誰?」





その夜、ルディはついにアイゼンガルドに向き合った。
真剣な瞳で…真っ直ぐに彼だけを見据える。


「…誰なの?」




耳元で子守唄が流れている。
誰が歌っているか判らない子守唄。
女性のような音色は美しく耳に心地良い。
だけど酷く悲しく胸を締め付ける。

『ごめんなさい…ごめんなさい』

謝っている声は聞こえない。
もう…聞こえない。


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