第五章、『処女姫』―後編―




全身が震えていた。
上下の歯はガチガチとだけ音を鳴らし、小刻みな揺れに手足に付けられた枷の鎖が大きく揺れて金属音の騒音を呼び覚ます。
それを必死に自分の内に抑え込もうと、小さな身体を抱くように彼女はぎゅっと力を込めていた。
後ろでそんな彼女の姿を実に愉快だといわんばかりの表情でシフォンは眺めている。
その視線が牢屋の前にまでやってきた足音の主へと静かに移動した。

こちらもまた酷く怯えたような面をした男だ。
かなりの歳を食った老爺のように酷い猫背で、蒼褪めた顔色をしている。ほとんど飲まず喰わずでそこに存在しているのか、ガリガリに痩せこけているし、埃と本人のふけを大量に被っている灰色のローブは、変な場所で皺を作り、薄汚れていた。世にも醜態な姿である。まるで、鼠男だ。

「ひ、久し、ぶ、ぶりですね…っ」
「…えぇ、お久し振りです…、クローズさん…」
憎々しげにルディに言葉を吐きつけたクローズにルディは哀れそうな表情で答えた。
クローズはアイゼンガルドの下僕だ。
能無しのクローズ。
誰からもそう言われて、蔑まれている男。
しかし、ルディは知っていた。この男は決して能無しなんかではないのだ。
彼の得意能力。
それはいつでも力あるものにつくずる賢さ、もしくは相手の機嫌を損ねないようにどこまでも卑下される役を演じる事。
「ふ、ふふ、あ、貴女が逃げてから、大量の人が死にましたよ!!」
どもりながら、彼は真っ青な血色で牢屋の鉄格子を掴んで揺らした。
ルディは真下の地面を見つめ、頭をがくんっとおろす。
埃や、石と石の隙間に埋もれるゴミがルディの気力を減らしていった。

「…やめろ」

ルディが後悔の念に襲われている小さな沈黙の時、クローズの後ろ―――数歩下がった影の闇の中にいた男は蝋燭の灯りが当たる場所まで足を踏み出してきた。
シフォンはじっとその男の姿を眺める。
体格のいい屈強な肉体を持つ男。
しかし、その表情は想像していたよりかも弱っていた。
いや、想像していたというより、過去に見た男の顔つきと全く違う。
シフォンは冷静な表情のまま胸の中で激しく動揺した。
「ルディーナ…」
「……はい」
ルディが小さく頷く。
「…おかえり」
穏やかな表情と声色でアイゼンガルドは鉄格子の間を抜け、座り込んでいるルディの白い膝に手を添えた。
「…えぇ…、…帰ってきてしまったのね…」
ルディは小さな雫をそっとその手の甲の上に溢す。

「…開けろ」
アイゼンガルドはクローズの方を見ずに、冷たい音色でそう言いはなった。
クローズは慌てて、この牢屋に合う鍵を必死になって探し当てると、鉄の簡易な扉を重々しく開く。
「…ルディーナに枷をつけさせたものは誰だ?」
その後姿に間を開けずにアイゼンガルドは続けた。
「は…っ、あ、いや、…なにぶん急なことでしたので…っ、あ、は、はぁ…たしかデプラヴィティの新人かと…」
「殺せ」
「は?!…あ、は、はい!!」
「…まっ、待って!」
ルディがアイゼンガルドの鬼気とした言葉と表情に声を張り上げる。
しかし、アイゼンガルドは聞く耳を持たず、彼女の枷を全て取り除いた。
「待ちなさい!クローズ!!」
アイゼンガルドに言葉をかけても無駄だと思ったルディは哀しみの色を含む表情でクローズに縋りつく。
しかし、クローズは彼女の行動に恐れおののくと、アイゼンガルドの顔色を窺いながら数歩分、彼女から飛び下がった。
「あ、貴女が、貴女が逃げなければ…っ、その男も死ぬ事はなかったでしょう…っ!」
言葉が胸を一突きした。
ルディは言葉を飲み込み、嫌な味を舌先で感じる。
「…クローズ」
無精髭を一度触ってから、アイゼンガルドはクローズを一睨みした。
その瞬間、彼の身体は余計に縮こまり、長年機織を続けたような老婆のような格好になってしまう。
「……っ」
牢屋からルディを出すと、強制的に自分の元へ彼女を抱き寄せた。
そしてアイゼンガルドは眉を顰める。
彼女から、海の匂いとともに自分のしらない香りを嗅ぎ取ったのだ。
それは一種ではなく何種もの男の匂い。
不快感が募っていく。
それから視界の端でシフォンの姿を見た。
彼もアイゼンガルドを見ていた。
クローズとアイゼンガルドの姿を交互に観賞していたといっても過言ではない。
一瞬、シフォンの姿をどこかで見たことがあるとアイゼンガルドは思った。
しかし、元々彼は他人の顔を覚える事もしなかったので、さほど気にもとめず、首を小さくふる。それから小刻みに震えている憐れ下僕へと目を向けた。
暗い表情のまま抜殻になったルディを抱き上げながら、アイゼンガルドは冷たい言葉を紡ぐ。

「…この男も殺しておけ」

「…!」
抜殻と化していたルディはその言葉に顔をあげる。
アイゼンガルドに今までにないぐらい縋った。
首を何度も横に振って、彼の大きな胸元を何度も何度も叩く。
しかし、彼は無反応でルディの小さな身体を闇の中へと運んでいくのだった。


「…ふふ、…結局、仲間にするつもりもないってわけですか…」
シフォンは意外と冷静な言葉を囁く。
「は、はは、すまないね…。あんたも頭が回っていないのだよ、彼女を使ってはいけなかった。あの、姫を…、あの処女姫を取引の道具にしようしてはいけなかったのさ…。あれは触れてはいけないものだったのだ…決して」
「…あぁ、そうですか…」
目の前でひっそりと囁くクローズの言葉にシフォンは業とらしく大声を出した。
「それじゃあ、死ぬ前に犯っておけば良かったですかねぇ!…大事に大事にされた人形の中に突っ込むのは、さぞや窮屈で退屈でしょうがね!!」
「あ、あんた、や、やめろ…っ」

暗闇へと足を歩めていたアイゼンガルドの動きが止まった。
ルディは闇の所為で彼がどんな表情をしていたかは伺いきれなかったが、今までに見たことがないくらい怒りの表情をしていたに違いない。
ルディを持ち上げているその手にさえ、力がこもり、全身の筋肉がぴくっと動いたのを感じた。


「…クローズ、前言撤回だ。…その男の顔を火で燃やし、その後身体をバラバラにきざめ。そして、魚の餌として海の藻屑にしてやればいい」


地獄からやってきた悪魔が囁いたような音色だった。
どこまでも低くて、どんな隙間にも潜り込んでしまうような闇の声。

「はははっ!…えぇ、いいですよ、やってみなさい!…地獄の業火なら、とうの昔に味わいましたとも!!」

ルディは呆然とアイゼンガルドの衣服を握り締めていた。
耳でシフォンの高笑いを聞きながら、またクローズが振り翳した鉄の棒が空中を切る音も聞いた。
その後にどすっと鈍い音が響き、闇黒の廊下に滴り落ちる何かの液体の音が流れる。
鼠男がかさかさと音を立てていた。
枯れ木でも集めているのかもしれない。
この冷たい廊下に一箇所だけ熱を帯びる。
ルディは目をぎゅっと閉じて、涙を溢した。
何度も何度も小さな雫たちは頬を流れ、決まった道筋でルディの肩を濡らす。

雨は降らない。
血の雨は降らないだろう。

…今宵からはまた血の雨の変わりに、彼女の悲哀の涙だけが流れるのだから…。


「…この間の続きを話してくれ」
アイゼンガルドは子供のようにルディにそう言った。
「…この間…」
「あぁ、蝋で翼を作った男の話だった」
「……そうね…」
ルディはぼんやりと視線を動かさないまま、また瞬きもしないまま、本当に蝋で出来た人形のようにベッドに腰掛けたまま口を開く。
無音の空間で紡がれるそれは、まるで腹話術の人形のようなものだったかもしれない。

「…死んだわ」

「…そうか」

「…天罰なのよ。…近づきすぎてはいけなかった…」

「……」
アイゼンガルドはルディの膝の上に頭をのせる。
彼は手元に戻ってきた小鳥を眺めるように愛しげに、一安心した表情でルディを見上げていた。

「…貴方は、…神になったつもりなの…?」


ぎこちない言葉はそっと風に攫われては、波音に掻き消えていった…。


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