【屈折】


『リリス…、僕を殺して…』

悲しげな少年の面影がまた彼女の前に現われた。
小さな雫がその悲しげな瞳から零れ落ちる。
次に彼が向けるのは柔らかな安心したような笑顔。
何かから解放されるような…そんな表情。

『君に、僕の全てを終わらせて欲しいんだ』



「…嫌…っ!」

リリスは少年の朧な姿を掴むように必死に手を伸ばした。
少年がどこか遠くの闇へと消えていく。

(ダメ、ダメ、ダメっ―――!!)

リリスが伸ばした手を誰かがそっと取った。

「…どうした?夢の中でも俺を恋しがってたのか?」

小さな笑いを含んだ甘い響き。
「…え」
「目が覚めたかな?お姫様…v」
銀髪の前髪が揺れて、彼の唇がそっとリリスの首筋に触れた。
「る、ルシフェル?!」
慌てて掴まれていた手を引き離し、ルシフェルの腕から逃れる。

辺りを見回すと、コルチェとルシフェルが貸してくれた部屋の中だった。
いつの間にか借りたベットの上に寝かされていたらしい。

「ははっ、元気そうでなにより」
軽くウィンクしてルシフェルは笑う。
(…私、どうして…)
「…私」
脳裏を過ぎった疑問を素直に口に出そうとリリスは小さく唇を開けた。
「…おや、気がつかれたみたいですねぇ」
そこへ聞き慣れない音質が彼女の言葉を止める。
「……」
「…あぁ。あんたには心配かけたな」
深い緑色の髪が冬に降り積もった雪解けを待つ草と言い表すと似ているかもしれない。
柔らかな微笑みを浮かべながら、開いていた部屋に彼は入ってきた。
ルシフェルは愛想笑いのようなものを浮かべながら、礼儀のように一礼する。
「…えっとー、たしかヨーグル神父…だったけ?」
「えぇ。…それでいいですよ。ルシフェル」
「…ヨーグル?」
初めて聴いたはずなのに何故か懐かしい響きだった。
「…はい。リリスさん…?」
優しい笑顔が呟きに答えるように向けられる。
「い、いえ」
慌てて首を振り、リリスは作り笑いのような笑みを浮かべた。
その時ちょうど、廊下に二人分の足音が響いてすぐに部屋の中にそれの主達が姿を現す。

コルチェとバンバンだ。

「…あぁ、リリスさん。よかった」
「よかったのだ〜!!」
コルチェが安心した微笑みを浮かべ、それに続くようにバンバンも大きく笑顔を向けた。

「あ…、私、どうして…」

不思議な光景だ。
心の中でそう感じながら、リリスは微かな記憶の糸を探ろうとする。
「…公園で、貴女は倒れられたんですよ」
ヨーグルがゆっくりした口調で、リリスに微笑む。
「貴女は…記憶を失っているとか。
コルチェから聞きましたよ。…大変でしたねぇ」
何かを含んだような言い方に聴こえて、リリスはまじまじとヨーグルの瞳を見つめた。
深緑の瞳。その心を覆い隠すかのようにある眼鏡のレンズ。
そのガラスが彼の胸中を知るのには邪魔な気がした。
「…リリスさん、紅茶をどうぞ?」
少し間を置いて、持ってきていた紅茶のカップをコルチェはリリスに手渡した。
その彼の後ろを着いて来ていたバンバンも大きな瞳でリリスを覗き込む。
「おねえさん、元気になってよかったのだ〜!」
「…心配かけて、ごめんね」
彼の声に微笑み、コルチェから受け取った紅茶を一口飲み込む。
「…それでは、私はこれで失礼しますよ」
「あ!バンバンも、帰るのだ〜!!」
ヨーグルが扉の前へ移動すると、バンバンも続くように大声を発する。
窓の外を眺めると、日は赤く暮れてきている。
「あぁ、それじゃあ玄関までお送りしますね」
二人を先導するようにコルチェも部屋を出て行った。

後に残った空間の中で静かな沈黙が訪れる。

(…珍しいな)
先刻の状態も、なんだか不思議な気配がしたが、今の感じもリリスには不思議だった。
ルシフェルが口を開こうとはせずに、じっと部屋の隅の一点を見つめている。
何か考え事をしているのだろうか?

「ルシフェル…?」

いい加減変だと感じて、リリスはベット横の椅子に腰をかけているルシフェルにそっと手を伸ばした。
遠慮がちな指が彼に触れるか触れないかの瞬間、リリスの瞳が大きく見開かれる。

「…ルシ、フェル…?」
息が少し辛かった。
伸ばした手が掴まれて、強い力で彼の元へ引き寄せられる。
ルシフェルの心臓の音が聴こえそうな場所へ顔を埋めさせられて、リリスはただ困惑していた。

「…リリス、…大丈夫か?」

何が大丈夫なのだろう?
ルシフェルの手がそっと彼女の背中を撫でる。
それは何かを確認したかのような…。
「大丈夫…よ?」
顔を上げて彼を安心させるように微笑む。

「…もう、独りでは出歩くなよ?」

ルシフェルのその言葉の真意が何を意味するかを理解せずに、リリスは小さく頷いた。


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