【挿話】


『リリス…僕を殺して』


小さなオルゴールが機械的な音を立てて鳴り止んだ。
いつも同じ部分だけを繰り返しては途中で止まってしまう壊れたオルゴール。

何回螺子を回しても。
いつかは途切れてしまう曲。

(…それは僕の日常と同じ)

(いいや)

(このオルゴールと同じように壊れることができるのなら…)

(終れる事ができるのなら)


大きな湖の水面を眺めながら、少年は皮肉な笑顔を浮かべる。
曇った眼鏡が沈む夕日の光を反射していた。

「リリス…」

背後の気配に気がついて少年は笑う。
黒い翼の天使が優しい笑みを浮かべて少年に近付いて来た。


リリスと少年が出会ったのは数日ほど前。
両親の喧嘩と矛先の変わった暴力という虐待から逃れて少年はいつものようにそこに座っていた。
深い森の湖の辺に。
そして珍しい客人が来た。
招いてもいないはずの孤独な時間に彼女は現われたのだ。
背中の黒き翼を丁寧に広げながら…。

少年は恐れを知らずに妖魔である彼女に微笑む。
「君は…天使?」
と。
彼女の正体を知っていたからこそ、少年はそう言った。

(僕を殺してくれるなら、妖魔だって天使さ…)

しかし、その妖魔の反応は変わっていた。
その言葉に驚いた表情を浮かべてから、小さく微笑み、少年と会話をしてきたのである。
(騙しているなら思う存分騙してくれていい)
少年はリリスに微笑みながら、ぼんやりとそう考えていた。
(そして…早く僕の命を奪っておくれ)
少年は生から解放される事を深く望んでいる。
死への欲求が日々増していく。

だけど、彼女はそれに気づかなかった。
彼女は嬉しそうに少年に会いにやって来る。
そして少年もいつしか望みが別の望みに変わっていく自分に気づいていた。
(…僕は)
意味のわからない胸の痛みが少年を襲う。
両親から愛された事が無い少年にとって、それは摩訶不思議な感情以外の何者でもなかった。
だから。
判らなかったから。
その痛みに少年はだんだんと麻痺していく。
(どうか…これ以上僕を苦しめないで)
少年はある日決心をして妖魔に言葉を漏らすのだ。

「ねぇ、リリス…。どうして君は僕を殺さないの?」

これにはリリスの方が面を食らっていた。
彼女は初めて出来た人間の友人に恋愛感情さえ抱いていたのに。
そこで全てが壊れていく音が響く。

(君が僕を殺さないなら…)
少年は次の日、リリスに会う時間を指定した。
それは満月の夜。
妖魔たちが腹を空かせて血肉を貪るあの満月の夜…。
「その時間に会おう」
(そうして君は…)

(僕を食べて…この世から僕を消してくれ)

(この世から去るときに…君の綺麗な髪を眺めていたいから…)

リリスは頷く。
少年は笑う。
二人の気持ちは同じモノのはずなのに…。
通じる想いのはずなのに…。
どこかがおかしいオルゴールのように、それは食い違っていった。

オルゴールの音は…もう鳴らない。

「リリス…僕を殺して」

愛し方を知らない二人。
愛され方を知らない二人。

少年の言葉にリリスは地面が消えてなくなってしまった想いで、その場から逃げる。
少年を愛していたから、一緒にいたかっただけなのに。
少年は身体中にある火傷の痕に顔を歪めながら、上空へ姿を消したリリスを眺めていた。
リリスを愛していたからこそ、彼女の手で解放されたかっただけなのに。
少年の傷跡が水面に映る。
抜け落ちた黒き羽を拾い上げ、少年はただ涙を流すのだった。


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