【耽美】


ルシフェルは何かの呟きを抑えて、小さく溜息をつく。
それから、少し息を吸った。
そうすると、自分が育てている薔薇たちの香りが甘く鼻腔をくすぐってくる。
それが不思議と彼に落ち着きを与えていた。

庭に咲き乱れる美しき彼女達の姿を目に映しながら、そっとその中の一人に触れる。
「…っ」
ほんの小さな鋭い棘が、ルシフェルの指に刺さった。
紅色の血が少し滲む。

真紅の大輪は鋭い棘を持つ毒の花。

ルシフェルは自分の血を舌で舐めてから、もう一度深く溜息をついた。



その時のそれは溜息ではなかった。
むしろ吐くものはなく、ただ驚きの為に呼吸をする事さえ忘れていた。
大きく一度息を吸ってから、時が止まってしまったかのようだった。
銀色の髪が揺れて、そっと目の前に倒れているものに近づく。
幻のような…やけに現実的のような…
そのものは異質な香りを漂わせていた。
「……!」
黒き翼が縮み、折れるように彼女の中へ入っていく。
闇の中で、月の光を浴びて白く光る透明な肢体。
恐ろしく…だけどひどく魅力的で…
そのものの姿が鮮明に目に焼き付けられた。

傷だらけの翼を失った黒き天使。

ルシフェルの中でその言葉がそのものに適切だった。



「…あれ、んなとこで何してんだ?」
薔薇たちの庭から家の中に入ろうとした時、ルシフェルは小さく丸まっている人影に気づいて言葉を投げる。
彼の言葉に身体を少し強張らせると、その人影はそっと涙で濡れた顔を向けた。
「…どうした?」
少々予期せぬ出来事に驚いてから、ルシフェルはすぐに平静さを装いながら続ける。
「…私」
神秘的な紫色の瞳を濡らしながら、リリスはやっと口を開いた。
「…私、ここにいてはいけない気がするの」
「なんで?」
ルシフェルも彼女と同じように腰を曲げて、小さくなった。
「…わからない。…何もわからなくて」
瞼を閉じると、また彼女の頬を大粒の雫が流れた。
「自分がわからない。…恐い。恐くて…思い出せない」
たどたどしい口調で言葉を紡ぎながら、リリスは下に俯く。
そんな彼女を眺めながら、ルシフェルは優しく彼女の頭を撫でてあげた。
「…何もわからなくて、困っているからこそ、ここにいていいっていっただろ?」
「……」
「お前なんか外に放り出したら、俺らの夢見が悪くなる」
ルシフェルの手がおもむろにリリスの顎を掴んで、上に上げさせる。
「…お前の居場所が見つかるまで、全てが思い出せるまで好きなだけいたらいい」
「…どうして、貴方たちはそこまで私にしてくれる?」
リリスはじっとルシフェルの瞳を見つめた。
「…さぁ?なんでだろうな。コルチェは性格的に誰であろうが…
人が困っているのを見たら助ける奴だし。…俺の場合は」
リリスの瞳の中にいる自分を確認しながら、ルシフェルは軽く溜息を吐き出す。
「…俺の場合は、女の子は平等に愛せの精神に従って?」
「…何それ」
「下心有りの行動」
悪戯っぽくルシフェルが軽くウィンクを投げた。
それを見て、リリスは少し吹き出す。
「…そう、とりあえず、貴方の優しさには気をつけろってことね」
「おや、姫君。心外だな。…でも、元気が出たようでよかったよ」
ルシフェルの優しい微笑みがそっとリリスを包み込んだ。

「…でも、貴方達は後悔するかもしれないわね」

小さな吐息とともに紡がれた言葉は風に流されて消息を失う。
ずっと続く空腹感の理由が少しずつリリスの記憶の羅列に触れていくのだ。

微かに微笑んだリリスからは、あの日の夜に見たような恐ろしく惹きつけられる何かが見えた気がして
ルシフェルはそっと彼女の微笑みに眩しそうに目を細めるだけだった…。


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