【花蕾】


「ま、待って〜!」
日中の賑やかな通りの真中で、悲鳴に似た細い声が響く。
「なんだよ?リリス」
その声に可笑しそうにルシフェルが振り返った。
その隣を歩いていたコルチェも不思議そうな顔をして立ち止まる。
「…も、もぅ、服は買ったでしょ?」
ルシフェルの左手とコルチェの右手に握られている大きな買い物袋が彼女に目眩を起こさせていた。
朝の二人の誘いから街に出てきたは良かったが、それは間違いだったかもしれない。
「まだまだ足りなくねぇか?」
「た、足りなくないわよ!」
ルシフェルの言葉に即答してから、リリスは自分の額をおさえた。
「…そうですねぇ。体調も良くなったばっかりですし」
コルチェがリリスの気持ちを察したように辺りを見回す。
それから満面の笑顔でリリスへと顔を向けた。
「じゃあ、少し休憩しましょうか?」



(…はぁ、疲れた)
小さな喫茶店の席に腰を下ろしてから、リリスは深い溜息をつく。
喫茶店は外にも席が並んでいて、リリスたちはそこに陣を取っていた。
コルチェとルシフェルの二人は店の中に注文をしに向かっている。
ガラス越しの向こう側で、二人が何か言葉を交わしているのが見えた。
(なんだか…不思議な感覚)
日常の風景に自分はいるはずなのに、存在してはいけないようなそんな感じがしていた。
この平和な風景に、この人込みの中に浮いている気がする。
一枚の絵画の上に零された黒のインクの点に似ているかもしれない。
(…頭が痛い)
リリスはもう一度深く溜息を吐いた。

「ねぇ、貴女。お二人とどういうご関係で?」

リリスは少し飛び跳ねた心臓を抑えるように、胸元に手を当てて顔をあげる。
あまりの突然の出来事に脈打つ音が耳の傍で鳴っていた。
「…えっと、何かしら?」
言葉の意味が理解できなかったリリスは目の前に囲むよう立つ少女達を見つめる。
「ですから、コルチェさんとルシフェルさんとどういった関係って聞いているのよ!」
イラついたように真中に立っている少女がリリスの席のテーブルを叩いた。
「…関係って、…命の恩人かしら…?」
いい言葉が思いつかなくて、リリスは吐息混じりに答える。
「…ふん、どうやってお二人に取り入ったのかしらないけど」
中心に立つ少女の言葉に回りの少女達も大きく頷いた。
「あまり調子に乗らないほうがいいですわよ?
…まぁ、しょせんお情けで置いてもらっているだけでしょう」
少女の口元に意地悪そうな笑みが浮かぶ。
「お二人とも、とてもお優しい方たちですから…。
…飽きて捨てられないようお気をつけくださいな?」
「やっ…!」
バシャリ…と冷たい水がリリスの頭に浴びせられる。
少女の手には小さなガラスコップがあった。
「ふふ…。いい姿でしてよ?」
「本当に!お似合いですわ〜」
中心の少女の言葉に何人もが続く。
(…なんなの!)
リリスはいい加減怒鳴りそうになって、強く中心の少女を睨みつけた。
「…一体なんだって―」
「…あれぇ?お前、何してるんだ?」
少女達の輪を軽く無視してルシフェルがリリスの言葉を止めるように彼女の傍に寄る。
「…水に濡れたいい女っていう設定で待っていてくれたわけ?」
「…は?」
ルシフェルの言葉に思わず息が漏れた。
「だからさ…」
ルシフェルがそっとリリスを抱き寄せる。
「…俺を誘惑してどうさせる気だって聞いてんだよ」
リリスの耳元で甘い囁きが紡がれて、そのまま耳朶がルシフェルの舌で舐められた。
「るっ、ルシフェルさんっ?!」
周囲の少女達の悲鳴。
中心の少女が大きく彼の名前を叫んだ。
「…あれ?」
ルシフェルはその悲鳴たちに、やっと気がついたかのように顔を向ける。
「アーシャ…じゃないか。いつからそこにいたわけ?全然気がつかなかったな」
アーシャと呼ばれた中心に立つ少女は小さく拳を震わせた。
「うあーんっ!ひどいです〜っ!!」
「あ、アーシャ待って!!」
アーシャがその場から逃げ出すように飛び出すと、他の女の子達も追いかけていく。
「…リリスさん、大丈夫ですか?」
静かになってから、コルチェがそっとハンカチをリリスに差し出してくれた。
「…えぇ。平気だけど」
ハンカチで水滴を拭いながら、リリスは二人を視界に入れる。
「…悪かったな」
ルシフェルが溜息混じりに言葉を漏らした。
「アーシャは俺を好きらしくてさ」
軽く冗談を含む口調。
「…彼女、追いかけなくて良かったの?」
リリスは不思議そうに首を傾げて、ルシフェルを眺める。
「いいさ。…明日にでも機嫌取りに会いにいけばいいし」

(……あれ、何?)

リリスはルシフェルの溜息に少し胸が痛んだのを感じた。
(会いに…行って、…それから)
機嫌を取るって何をするんだろうという考えが脳裏を過ぎる。
「さぁ、食べましょうか?お昼には少し遅いですけど」
雰囲気を変えようとしているコルチェの微笑みにぎこちなく微笑みながら、リリスはそっと胸元に手を当てる。
(ここらへんが…痛い)
締め付けられるような小さな痛み。
「さ、リリス。早く食べねぇと俺が全部食べるぜ?」
ルシフェルが軽くウィンクをリリスに投げかけてきた。
彼らしい表情の一面。

(…私、どうしたのかしら)

冷たい波紋が広がっていく。
埋める事が出来ない空腹感がずっとリリスを蝕んでいく。

小さな花の蕾はまだ膨らみ始めたばかりだから――…


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