【残像】


『リリス、…おいで』

冷たい声がまた囁くように呼んでいた。



「うあっと…!」
コルチェは手からこぼれ落ちた何枚もの書類に目をやると、小さく溜息をつく。
「あはは、大丈夫ですか〜?」
「えぇ。すみません。ヨーグル神父」
仲のいい優しげな微笑みの神父に軽く言葉を返してから、コルチェは床に落ちた書類を拾った。

ここは町外れの森の中にある、湖近くに建つ古い教会の書斎の中だった。
何年か前、コルチェはたまたま森の中を散歩して、この教会と出逢った。
神秘的な雰囲気が気に入って、それ以来彼は休日にはよく訪れている。

「…あれ?これってなんですか?」

コルチェは拾った書類の中に古い文献のような物が混じっている事に気づいた。
古代文字のようなものが綴られている。

「あぁ…。ただのガラクタですよ。気にしないで下さい」

言葉とは裏腹にさっとコルチェの手からそれを奪うと、神父は穏やかな笑みを浮かべる。
しかし、一瞬その瞳が鋭い光を漂わせた事をコルチェは密かに見た。


「あ、そういえば…ヨーグル神父って鳥なんて飼っていましたっけ?」
どこかで感じた恐怖感を払うようにコルチェは話を変える。
細い指でそっと書斎の窓近くにあった鳥篭を指差した。
「…あぁ」
ヨーグル神父は甘い吐息にも似た音を発すると、コルチェが指差した鳥篭の金網に触れる。
冷たい金属の感触が彼の指先から脳へと発信された。
「…えぇ、少々わがままな子でしてねぇ」
唇の端に見た事もない邪悪さが浮き出ている。
「…ですが、またもうすぐ戻ってきますよ」
「はぁ…」
「その時は、貴方にも見せて差し上げましょう。…特別に」
コルチェは神父の人を惹き付けるような笑みから必死に目線を外した。
「…そう、もうすぐ私の手の中へ」



――ガッシャンっ

コーヒーカップだったものの破片が無残にも床に散らばった。
ルシフェルは溜息を吐き出すように長く深くつく。

「アーシャ、俺に一体どうしろってわけ?」

破片の一つ一つを丁寧に拾い集めていると、アーシャはその手を大きく払った。
その拍子に、彼女の白く細い指に赤い線が一本走る。
「…っ」
「…まったく」
ルシフェルは銀髪の前髪をかきあげてから、もう一度溜息を吐いた。
それから、涙目の少女にそっと近づく。
「馬鹿なことするから、こういうことになるんだぜ?」
「…あっ」
アーシャの指から流れ出た彼女の赤い体液を彼はそっと舌で舐め、口に含む。
その一つ一つの仕草を見惚れるように眺めながら、アーシャは余計に涙腺を緩ませた。
「…どうして、そう中途半端に…っ、私の事、嫌いなくせにっ」
「…誰もそんなこと言ってないだろう?」
甘い囁きの主が真剣な瞳で真っ直ぐと見つめてくる。
その事実にアーシャは頬を紅潮させた。
「…じゃあ、特別?」
それから小さなピンクの唇が言葉を紡ぐ。
「あの女より、私は特別よね?」

(…ふぅ、もう悪ふざけも終わりかな)

心の中での小さな呟きにルシフェルは苦笑した。
目の前の期待に瞳を輝かせている少女は可愛いと思う。
そう、女性という存在ほど可愛いものはないだろう。

「…アーシャ、残念だな」
「…え?」

彼に似合わないほどの冷たい音質。

「…君なら、俺の事を判ってくれると思ったんだが」

もちろんそれは逃げるためのただの口実。
ルシフェルは彼女の唇と頬に触れるか触れないかの空間へ切なげに手を伸ばす。
それからすぐにその手を引き、眉を歪める。

「…じゃあね」

「やっ!ルシフェルさん、待って!!」
アーシャは急いでルシフェルの後を追ったが、彼の姿は屋敷の外へ出た瞬間、人込みの中へと消えていった。
大粒の涙が頬を伝う。



(…可笑しいな)

人込みの中へ紛れたルシフェルの脳裏にそっと黒い翼が横切った。
それはすぐに不安そうな顔をする誰かへと変化する。
「…へっ、バーカ」
自分自身に言い聞かせるかのように彼はそっと笑うだけだった。


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