第一章、彼女の名は?
「ジェイ!キャプテン・ジェイ!人が死んでいる!」
丁度、昼頃を回った頃だろうか、船の一番高い場所から海原を見ていたサリューは、そう声を張り上げた。頭に巻いている派手なバンダナは彼のお気に入りらしく、仲間のクライヴに禿げるぞと言われても、滅多に外そうとはしなかった。
「ジェイってば!…ジャスティス!馬鹿ジャスティス!」
「その名で呼ぶなといっているだろう」
サリューが何回も呼んで、やっと船長室から出てきたのはこの船の持ち主の男だった。ジャスティスというのはジェイの本名だったが、本人はこの名前で呼ばれることを嫌がっている。
「そんなことはどうでもいいんだよ!」
サリューはジェイの近くに来ると、遥かな海原を指差した。ジェイが目を凝らして、その方角を見つめる。しかし、よく見えなかった。見えるのは大きな海原に小さな点がぽつりと波に揺らされながら浮いているという事ぐらいだ。
「ね?人でしょ?やっぱり、あれって死んでいるのかな?」
「……」
サリューの無邪気な声にジェイはただ無言で答えるしかなかった。サリューはこの船に乗っている誰よりも視力がいい。しかし、ジェイの方はというと、別にそれ程いいわけじゃなかった。さらに左眼は昔の怪我で失明していて、黒い眼帯をしている。だから人であるかどうか、ましてやその生死など判るはずも無かった。
「他のやつらは?」
「皆昼ご飯だよ。ジェイには朝ご飯かもしれないけど」
少しばかり生意気な口調でそう言うと、サリューはまたあの点を見つめる。ジェイはそれを見て肩をひょいっと竦め、軽く溜息をつく。船の下へ続く階段から仲間達の話し声が近付いて来るのが判った。そして丁度ヴァインが階段を上りきった時だっただろう。サリューの大きな声が船の上に響いた。
「…ねぇ、ジェイ…あの人…生きているかもしれない!」
海の水は冷たかった。でも、とても温かかった。彼女にとっては、あの冷たい男と冷たい壁の部屋、そして冷たい鉄格子、鎖。それ以外なら、なんでも温かかったに違いない。
「…ん」
バケツ一杯の水が自分に降ってきた。朦朧としていた意識の中、少女は目を開ける。瞬間、自分の周りに何人もの人間がいることに驚いて飛び起きた。しかし、驚いているのは少女だけではない。
「…女の子だ…」
誰かがそう呟いた。それに連鎖反応したのか今まで静かだった船の上はざわめきで一杯になる。少女はただ不安そうに周りを見つめているだけだった。彼女の大きな瞳が震えている。
「ちょっと、皆静かにしてよね」
少し生意気な口調でそういったのはサリューだ。彼は偉そうに鼻の下を指でこすると、自慢気に続ける。
「ほらほら〜、僕が言ったとおりでしょう。…ま、女の子だってのは判らなかったけどさ。…賭けは僕の勝ちだよ。キャプテン」
「あぁ、そうだな」
ジェイが溜息をついて、サリューに金貨二枚を渡した。それを見て他の誰かが何かを言ったが、二人はすんなりとそれを無視する。
「…だが、驚いたな」
ジェイのその声は言葉とは違い、全く驚いてはいなかった。その声は面白がっているようにしか聞こえない。
「…君の名は?」
「私…私の名前は…」
ジェイの静かな問いに少女の紅い唇が開き、小さな白い歯がのぞく。そして優しい音色で言葉は紡がれた。
与えられた船の一室は少しばかり埃を被っていたが、真っ白いシーツのベッドと小さな丸い木のテーブルが置かれてあった。小さな窓があって、そこから温かな光も差し込んでいる。
「……私…生きている」
木の床に膝をつき、太陽の光を十分に吸収していたベッドにもたれ掛かると、ルディはそっと大きな瞳を閉じた。
ルディーナ・ジョセフ。それが自分の名前だったことを思い出したのはつい先程だった。忘れていたのだ。ルディを助けてくれたこの船の船長と思われる長身の男が、彼女に尋ねてくるまでは。
「…私は…ルディ…」
彼女の深紅の瞳から、そっと一筋の涙が流れた。頬を伝っていたその雫は、やがて白いシーツの上に零れ落ち音を立てずに吸い込まれていく。そして暫くしてから、ルディの雪のような銀髪の長い髪がさらっと空中を流れた。
「ルディ、いいかな?」
部屋の扉を叩く音が聞こえたのだ。慌てて立ち上がったルディは、よろよろとふらつく。やっとの思いで扉のノブに手をかけて静かにまわした。
「…大丈夫かい?」
扉の向こうには、この船の船長ジェイが立っていた。灰色に近い紫色の髪を肩まで伸ばしていて左眼には眼帯を巻いてはいたが、整った顔をしている。薄緑色の瞳も本当に綺麗な海のような色をしていて、両目が揃って見られないことが残念だった。
「…俺の顔に何かついているのかな?それとも…見惚れたのか」
冗談混じりの口調でそう言われて、ルディは少しばかり頬を熱くした。その間にジェイは部屋の中に入る。そして、静かに扉を閉めると例のベッドに腰をかけた。
「君も座りなさい。まだ、体力が回復して無いのだろう?」
「…ありがとう」
まだ怯えの色は上手く隠せないが、ルディは素直にその言葉に従う。ジェイから少し離れてベッドに腰をかけると、ルディは大きな瞳でジェイを見上げた。
「…君は、あの要塞から逃げてきたのか?」
―こく。ゆっくりとルディは首を縦に振る。
「海に飛び込んで…逃げたんだな?」
―こくん。
「しかし、君の容姿は…あまりにも」
そこでジェイは言葉を止めた。彼女の首筋に何かの文字が刻まれている事に気がついたのだ。ルディの姿は肌が露出していて、白い布を巻き、そこに茶色の皮のベルトを腰に止めているだけの格好だった。だから、首筋はもちろん露出している。ルディの白い肌に似合わない黒い文字。それは、『1』という数字だった。
「…これは」
「お願い…言わないで…」
ルディはジェイに飛びつき、口を両手で抑えた。か細い腕で、必死に力を込めている。飛びつかれた方のジェイは、ベッドに押倒される形となっていた。そこへ水の雫がぽたりと自分の頬を伝う。
「……」
ジェイはそっと彼女を抱きとめた。そして優しく頭を撫でてから、無言で部屋を後にした。風の噂で、あのアイゼンガルドが手を出す事の出来ない女が存在すると聞いたことがある。この世のものとは思えない程の美しさを持った少女の噂を…。
「うー――ん…」
サリューは永遠と同じ廊下を行ったり来たりしていた。そして、同じ部屋の前で幾度も立ち止まり、唸り声を上げる。これが先刻からずっと繰り返されている。もうすぐ、夕方がやってくるようだった。太陽は海に寄り添うように傾き、船の中は蝋燭の明りでもっている。
「…お前、一体さっきから何してんだ?」
「うあっ!…な、なんだヴァインか、ちょっと脅かさないでよねーっ」
突然した声に驚きつつも生意気な口調はそのままで、サリューはヴァインを睨み付けた。廊下の丁度、曲がり角に立っていたヴァインは呆れたように溜息をつくと、無造作に伸びた自分の赤い髪を手でかく。
「気づかなかったのはお前だろうが。で、何してんだ?」
まるで暇をしていた子供が遊び道具を見つけたかのように、ヴァインはサリューの小さな肩に手を置いた。
「ここって、あの子に貸している部屋の前だろ?何?ガキの癖に早速口説こうってか?」
「違うってば」
サリューは自分の手より一回りぐらい大きなヴァインの手を振り払う。
「僕をヴァインなんかと一緒にしないでよ。…ジェイに命令されたんだよ。あの人にご飯を作らせるのを手伝うようにってさ。」
「…じゃあ早くしろよ?…もしかして…お前、緊張してんの?」
もうすぐ吹き出しそうな顔で、ヴァインは肩を震わせた。必死で笑うのを我慢しているのがサリューにだって判る。むっとしたサリューはゲシッとヴァインを蹴った。
「しょうがないだろっ!僕は今年でやっと十一になるんだから、あんな若い女の人なんて…みたことがないんだもん、ヴァインやジェイみたいなおじんとは違うんだよ!」
「なっ、てめぇ…誰がおじんだっ、誰がっ!」
「本当のコトだろ!」
二人が喧嘩する事はこの船では日常茶飯事だった。年は十六も離れてはいたが、二人は本当の兄弟のように仲がいい。サリューの生意気な口調も一番年下だという弱さを見せないためだということは、ヴァインが一番理解していた。だから彼に対するヴァインの口調もわざと意地悪だった。
「あ、あの…」
おどおどと可憐な声がそこに入って来た。綺麗な音色の声。音の響きに合わせて、銀色の長い髪もさらっと流れた。
「あっ、お、おはよう!あ、あの、僕…ジェイのお願いで…あっ、僕はサリューだよ。宜しく。あ、こっちはヴァインで。それで、ジェイのお願いで」
「夕飯の支度の御手伝い…よね?」
「…聞こえていたか」
ヴァインの言葉に軽く頷くと、ルディはサリューの方に向き直る。その一つ一つの仕草が、まるで一枚一枚の絵画のようだった。サリューはぼうっと見惚れたが、ヴァインに腕をつつかれて現実に戻る。
「こっちだよ」
初めて異性と話した所為か、それともルディの存在の所為かは判らなかったが、サリューはほんの少しだけ声が上擦っていた。
「おかわり」
これで何回目だろう。サリューは呆れて声も出なかった。いや、確かにルディが作った料理は美味しい。サリューだって、おかわりをしたのは事実だ。しかも一番に。だが、いつもはおかわりもしない少食の眼鏡の彼はどうだろうか。雑用ばかりやらされていて、船酔いでよく吐き、ドジばかりをしている彼は。
「あ、あの…おかわりを」
「おいおい。リオ…、お前どうしたんだ?…また吐くんじゃねぇぞ?」
ヴァインが一応心配して声をかけるが、リオは誰の言葉も聞いてはいなかった。いや、聞こえていないといったほうが正しいだろう。
「リオさん、これぐらいでいいですか…?」
まだ話すのに遠慮がちな雰囲気はあるが、優しい声と優しい笑顔でルディがそう言った。リオは頬を赤らめながら、ぼーと何回もその声に頷く。
「…完全にいかれちまっているな…」
ヴァインはぼそりと呟くと軽く溜息をつき、ジェイの方に目線だけを向けた。ジェイの方も同じように溜息をついている。それを見て、少しだけ苦笑するとヴァインもとりあえず、ルディに自分の皿を差出した。これでルディ以外の全員が三皿目に突入した事になる。
「…ルディ、君も落ち着いて食べなさい。もうおかわりするやつはいないだろうから…さすがにね」
「あ、はい」
ジェイの言葉にルディはやっと、自分の席についた。自分の皿の中身は少しだけ冷めていたが、皆が自分の料理を美味しいといってくれた事はとても嬉しかくて胸が温かかった。
「…勝手におかわりさせて貰うな」
「あ、私が」
もう誰もおかわりなどはしないだろうと思っていたとき、クライヴが席を立った。右耳に小さな鈴のついたピアスをしているらしく、その鈴がクライヴの動きにあわせて小さな音をたてる。それを見たルディが慌てて席を立ったが、急に立ち上がったためか、ふらっと体勢を崩してしまった。
「あっ」
思わず、そこにいた全員が腰をあげる。しかし、ルディは床には倒れなかった。倒れこんだ先に上手くクライヴが立っていて、綺麗に彼女を受け止めていた。
「ご、ごめんなさい…」
「別に…今度は気をつけろよ」
彼はルディの顔を見ないでそういうと、自分の皿にスープを汲む。黒い長い前髪が彼の表情を隠しているが、どうやら少し不機嫌そうな顔をしている感じがした。
「ホント、気にしなくていいからね」
そう言ったのはサリューだった。もう食べ終わったらしく、猫の絵柄が描かれた黄色い布で口の周りを拭っている。
「クライヴが不機嫌なのはいつものコトなんだよ♪」
「…そう」
一瞬、クライヴがサリューを睨んだがサリューは気にも止めていない様子で腰をあげた。
「じゃあ、僕…見張り台、いってきます〜」
「あぁ、頼んだ。」
サリューの元気な声に軽く微笑んでジェイが答える。他にもヴァインやクライヴたちがそれぞれ声をかけた。ルディも小さな口で『いってらっしゃい』と言葉を紡いだが、走り去ったサリューにその声が届いたかは判らなかった。
「さてと、俺も部屋に戻るか」
「…船長。僕から少し話したいことがあるのですが」
次に席を立ったジェイに抑揚の無い声が呼び止める。
「ん?珍しいな…スカイから話とは。…別に俺は構わないが」
スカイと呼ばれた青年は氷のような冷たい水色の瞳をしていた。薄い水色の髪を腰の辺りまで伸ばしていて、それに金色と桃色の細いリボンを複雑に絡ませている。それが彼の持つ独特の雰囲気を盛り上げている事は間違いない。
「えぇ。できれば船長の部屋で話します。…僕と…それから彼からと」
「……また珍しいな」
スカイの声に反応して立ち上がったのは、今まで黙々と食べていただけだった虎之助だった。紫色に近い桃色のサングラスをかけていて、両耳ともピアスを四個ずつ付けている。派手な服装に加え赤のメッシュ入りの黒い髪が、スカイとは対照的な雰囲気を作り上げていた。
「まっ、自分はあんまり気にしなくていいっすよ」
虎之助はニィっと白い歯を見せて笑うと、食べ終わった皿の横に置いてあった自分の計算機を手に持つ。
「じゃあ、ルディ。俺たちはこれで。後片付けも頼む。いつもはリオがしているから、彼の手伝いってことでな」
「は、はい。ジェイさん」
「…じゃ、またっす。ルディちゃん」
三人を見送りながらルディはやっと自分の分を食べ終わった。その時にはもうヴァインの姿はなく、一言も話を交わした事も無いドクター・ディと呼ばれている船医と、初めて見たときに女性と間違えそうになった副船長であるシフォンの姿もなかった。ちらりとルディは残っているメンバーを見回す。食べ終わった皆の皿を一つにまとめているリオと、最後の一口を口に入れたクライヴ。それから、道化師の仮面をつけ素顔も声も不明のままのアルディオンという男。そして彼の膝の上にちょこんと座っているサルマス。サルマスは一見、サリューよりも幼い少年に見える。しかし、彼は少年ではない。自分の年を忘れるぐらいに生きているらしく、昔に古代の禁じられた書を開いたため、大きな力を手に入れたが代わりに子供の姿に変えられたということだった。年をとる事も止められてしまったらしい。
「のう、お主…ルディといったの」
そのサルマスがルディに声をかけてきた。ルディは驚いたが、慌ててこくんと頷く。サルマスはそれを見て少し不服そうな顔をしたが、言葉を続ける。
「お主、綺麗な顔をしとるな。
その髪と瞳はまるで貴重動物のウサギみたいじゃ」
「あ、本当ですねっ。ぼ、僕もそう思います」
皿を大体まとめ終わったリオも会話に入ってきた。間抜けに一本だけはねている栗色の髪が、彼が動くたびに揺れている。
「そ、そうでしょうか…」
何と答えていいのか判らないルディは戸惑いを見せながら、リオがまとめた皿を持ち上げようとした。リオはそれを心配そうに見つめる。
「……たく。無理するなよな」
「あ、すみません」
ひょいっとルディが持っていた皿の半分をクライヴが取り上げた。それから自分の分の皿も加えて、台所に持って行く。その後をルディも続いた。
「……お主も見ているだけじゃダメなのだぞ」
「えっ、あっ、はい!ルディさん、僕はモップをかけますねっ」
サルマスに言われてから、リオははっとして動き出した。それをみて軽く溜息をつくと、サルマスはアルディオンとともに自分の部屋に戻っていく。手伝う気は全くないらしい。
「…では私は」
「洗い物は俺がしとく。あんたはテーブルでも拭いていてくれ」
「あ、はい…」
クライヴはやはり不機嫌な口調だった。しかし、ルディは嬉しそうに微笑んで雑巾を手にする。
「ありがとうございます」
「…ん」
短い返事だったがルディには十分だった。長い前髪で彼の表情はあまり見えないが、頬が少し紅くなっているのが判ったからだ。
「よし…綺麗になった。もう終わりですね」
「…う…あぁっ!」
リオがバケツに足を引っ掛けて勢いよく水を撒き散らしながら転んだのは、ルディが優しく微笑んだ直後だった…。