第二章、ルディーナ
海は穏やかだった。静寂だけの存在する夜。数多くの瞬く星が夜空を彩り、闇に溶け込む黒い海がそっと風という楽器で波という音楽を創り出す。そんないつもと変わらない夜。サリューは独り、見張り台の上で海を眺めていた。見張り台は彼のお気に入りの場所。仲間の殆どは、あんな高くて寒くて空気が薄いとこによくいられるなと口にするが(主にそれを口にするのはヴァインらしいが)サリューにとっては風が直接肌に触れられ、遥か遠くまで見渡せるすごく気分がいい場所だった。
「…あれは…ルディ?」
サリューは見張り台のすぐ下の荷物部屋横の人影に気づいた。
「ルディ〜!ルディってば、そこで何をしているの?」
「あ…サリューくん。……サリューくんは何をしているの?」
尋ねたのに尋ね返される。サリューは少し眉を寄せたが、気を取り直して寝ている仲間たちを起こさない程度に声を張り上げた。
「見ているんだよ。…船の周りの様子をネ」
「…面白そう。私もそこにいっていい?」
「え…」
サリューは驚いたが、網目状になっているロープを一段ずつゆっくりと上ってくる彼女を止める事は出来なかった。淡雪のような綺麗な彼女の髪が風に揺られている。いつも見ているはずの景色が、今は幻想的な景色へと色を変えていくのが判った。
「…結構苦しいね」
息を切らしながら笑い、ルディはそっとサリューの隣に座る。
「寝られなくて…散歩していて良かった。綺麗…だね」
「…うん、僕のお気に入りの景色だよ」
まともにルディを見られないまま、サリューは夜空を仰いだ。星達の瞬きがまるで、自分の鼓動のような気がする。
「…あの…、…聞きたかったことがあるの」
一時の沈黙の後、ルディが口を開いた。大きな瞳は心なしか不安げな色を漂わせている。
「…この船の人たちは…あの人を、アイゼンガルドを…どう思っているの?」
「……嫌いですねぇ」
「うあっ!」
突然背後から声がして、二人は驚いた。ロープに足をかけ見張り台の木の角に肘をついている人物。それは副船長のシフォンだった。明るい蜂蜜色の長い癖毛を風になびかせながら、柔らかく微笑んでいる。
「他の船員が何ていっているかはわからないですが、私は嫌いですよ。少なくとも皆好意は持ってないでしょう。だから、この船に乗っているんです。そうですよね?サリュー?」
「え、う…うん」
サリューも厳しい瞳でシフォンの言葉に頷いた。
「きっと貴女は…もしかしたら、やつの所へ連れて行かれているかもしれないと危惧したのかわかりませんが…。私たちはやつの言いなりになっているそこらへんの…下賎の海賊とは違います」
優しい微笑みを浮かべながらもシフォンの言葉はどこか棘が刺さっている。しかし、そのはっきりとした口調にルディは安心感を覚えた。
「…私たちはアイゼンガルドの手下海賊を狩る事を目的としていて、最終的にはやつの首を狩れれば…とね」
「!……そんな…これだけの人数で?」
「…さぁてね?…ただ…勝利の女神はそろそろこちらに微笑みかけようとしているようですから…」
月の光に包まれながら、シフォンはくすりと口元に笑みを作った。その視線はルディの首筋の数字を捉えていた。ルディの背筋を一瞬凍ったような感覚が襲う。矛盾した安心感と危機感をシフォンから感じ取ったのだ。
「…さて…。見張りはサリューに任せて貴女は眠りなさい。…美味しい朝食が食べたいですからねぇ」
その言葉で危機感は消えたが、ルディはまだ眠れそうに無かった。だが、サリューの方を一度見て、それから空を見上げると小さく頷く。
「気をつけて?」
サリューが二人を静かに見送る。風はだいぶ和らいではいたが、か細い彼女の腕ならすぐにロープから見放されてしまうだろう。
「…おやすみなさい」
網目状のロープを無事に降り終えてから、ルディはにっこりと花のような笑顔で下から微笑んだ。それを見たサリューも大きく手を振る。ルディとシフォンの姿が見えなくなるまで見送っていたが、やがて静寂だけが訪れるとサリューは見張り台の床下に置いてあった毛布に包まった。心地良い波の音が彼を安らぎへと連れ、波の動きは揺り篭のように優しく揺れるのだった。
ルディの朝は昨夜の静けさが嘘のように騒々しかった。朝食の用意をする前に洗濯物を頼むと言われたのだ。いつもはリオだけでやっているらしい。手馴れたとまではいかないが、仕事の速さはかなりのものだ。ただ、彼のドジがなければ、もっと効率良く進むのは間違いないだろう。
「ルディさん、すみません。
僕が不甲斐無いばっかりにこんな仕事を手伝わせてしまって…」
リオはエプロンを着ながら小さい声で呟く。
「いいえ、平気です。私、こういう仕事…大好きだから」
「ルディさん…」
髪の毛を後ろで一つに束ね、エプロンを着ているルディの姿をリオはぼーっと見惚れた。不思議と胸が高鳴り、リオの鼓動が早くなる。
「さぁ、リオさん。早く朝食の用意をしましょう」
「は、はいっ」
リオは優しいルディの笑顔に紅くなりながら、必死に誤魔化そうと包丁を軽く握った。
「リオさんっ」
大量の血がリオの手から流れ出る。間抜けな事にリオが握ったのは、包丁の刃の部分だったのだ。
「うあぁっ、血が…血が〜」
「あぁ、動かないで!…布を!この布を巻いて止血をっ」
気が動転して泣き叫ぶリオにルディが落ち着いて手拭に使うはずだった布で、切った部分とその前の間接を抑える。
「…何を…騒いでいるんだ?」
「ふぇ〜ドクター・ディ、助けてください〜」
台所を偶然覗いたのは船医のドクター・ディだった。それに気づいてリオが泣きすがるように彼の脚に抱きつく。
「……はぁ、落ち着け。医務室に行くぞ。それじゃあ、ルディ君だったか。そういうわけだから、安心して作業を続けてくれ」
「は、はい」
眉間にしわを作りながら、深い溜息とともに去っていくドクター・ディとやっと落ち着きだしたリオを見送った後、ルディは台所の散々な有り様をどうしようかと考えた。
まず、血まみれの包丁とまな板を綺麗に洗い流し、野菜スープの仕込みをする。スープを煮込んでいる間に、長い航海では絶対に欠かせない物である乾いたパンを取り出した。普通の食パンとは違って乾燥しているため、長い間日持ちする。それをサンドイッチのように中に海で採れる甘い海藻『ミグラ』というものを挟んだ。ミグラは三種類あって、とても甘い赤いものと、少し苦味があるが解毒剤として使われる青いもの、甘く実のようになっているピンク色のものがある。今使ったのは赤色とピンク色のものだ。
「器用なもんだな」
「あ、おはようございます。ヴァインさん」
台所をひょいっと覗いてきたのはヴァインだった。赤い色の髪が無造作に流れている。
「あぁ、おはよう。珍しく早く起きてね。
これも美味しい朝食を食べたくてしょうがないからかな」
「朝から軟派するなよな」
食堂の一番端の席にクライヴが座っていた。相変わらず前髪の所為で表情は伺えない。
「ふーん。…てめぇがしたいからって妬くんじゃねぇな、少年K」
そう口にしながら、ヴァインはクライヴの前に座った。
「誰が少年Kだ。それから、妬いてなんかねぇっ!」
「むきになるところが益々妖しさ倍増だぜ?」
二人は食堂内にある一つの長いテーブルの正面同士で口喧嘩を始める。そうしている間に怪我の手当てをし終わったドクター・ディと手当てをされたリオが帰ってきた。それと同時にシフォンとスカイも別の扉から入ってくる。
「…おはようございます。えっと、もう出来ましたから」
大きく息を吸い込んでからルディはそう言った。まだ大勢の男性に話し掛けることは緊張したが、だんだんと自然になってきている。
「ご飯〜♪…おはよう!皆〜」
サリューも元気な声で食堂に入ってくる。その後にアルディオンに連れられて眠そうなサルマス。続いて虎之助もやってきた。船長であるジェイ以外が揃ったようだ。
「…きっと、この世界が安定したなら…君はいいお嫁さんになるな」
一口スープを口に含んでから、ヴァインがルディに向かってそう言うと、リオも思わず同意する。
「そんな…」
ヴァインはきっとルディが困ったような顔をするのを想像していたのだろう。しかし、その彼女の反応は全く予想とは反していた。頬を紅潮させて、無理した笑顔ではなく本当に自然な恥かしさを含む笑顔で笑ったのである。
「…そんな事言われるなんて…すごく嬉しいですっ」
十代の少女のあどけない表情そのものだった。その微笑に呆然とそこにいた全員が動きを止めた。
「…私、小さい頃から…好きな人の傍に…あっ、花嫁とかそういうのも憧れるけど、そこまでは望まないです。今の状況じゃとても難しいもの…。でも…でも、せめて好きな人の傍にいられるだけでいい。それが夢なんです」
「……そっか」
ルディの笑顔を見つめながら、ヴァインは笑顔で彼女に頷いた。ルディははっとして『ごめんなさい』と耳まで真っ赤にして俯く。
「…その夢の前には…きっと、綺麗な衣装も宝石も意味はなかったんでしょうねぇ。…ご馳走様。じゃあ私は船長を起こしてきますから」
綺麗な笑みを口元に浮かべたシフォンの意味深な発言の答えはルディにしか答えられない。俯いたままルディはシフォンが去っていく気配を静かに背中に感じていた…。
船は進む。ゆっくりと遥かな海原を駆け巡っていく。ゴールがあるわけでもなく、目的地があるわけでもないが船は止まることを知らないまま、気持ちよさそうに風を受けて前に進むのだ。
「…はぁ」
ルディは軽い溜息をついて、白いシーツのかかったベッドに仰向けの状態で横になった。部屋の小さな窓から丸くない月が覗いている。薄い雲も出ていて、今夜の月の光は闇のヴェールを着ているようだった。無意識なのか指に自分の髪を絡めたり解いたりしながら、呆然と何もない空中を見ていた。
「あの人は…」
ぼそりと呟き、自分の言葉に顔色が蒼白になる。
「あの人は…誰かを殺しているだろうか…?」
ルディが楽しく過ごした今日という日にもルディの言うあの人は人を殺しているのだろう。激しく機嫌を損なっては誰でもいい誰かを犠牲にしていく。それがあの人の―アイゼンガルドの毎日。ルディはそっと自分の右の首筋に触れて、大きな瞳を閉じた。頭の中にある言葉が甦る。それは朝食の時にこの船の副船長であるシフォンの言葉だった。彼はルディに対するアイゼンガルドの行為を知っているようだった。
『俺のものになれ』
アイゼンガルドの冷たい声が頭の中に響く。彼はルディには何故か手を出さなかった。いつもの彼だったら、気に入った女は無理にでもそのまま抱いている事だろう。それなのに最後まで彼女には手を出さなかったのだ。いや、出せなかった究極の理由が其処には存在するのだが、ルディは知るはずもない。ただ、無理やり押倒された事もあった。だけど、決まってルディが涙を浮かべ唇を噛みしめると、アイゼンガルドは黙って彼女に背中を向けるのだった。その背中は、どこへも行く事の出来ない激しい怒りと深い悲しみを背負っているように感じた。
「…ルディ、いいかのぉ」
ルディは突然の訪問者にどきっとした。慌てて起き上がって、少しだけ上擦った声で返事をする。
「は、はい。平気です。どうぞ」
「…じゃあ失礼するのじゃ」
部屋に入って来たのはサルマスだった。頭よりだいぶ大きい帽子を被っていて、それは服とお揃いのようだった。いつも傍にいたアルディオンの姿は見えない。
「…ふむふむ、やっぱりのぉ」
扉を閉めてから、サルマスはきょろきょろと部屋の中を見回した。ルディはきょとんとその様子を見守るしかない。やがて勝手に納得をすると、サルマスはにやりとその容姿には似合わない妖しい笑みを浮かべた。
「クローゼットすらないとは気が利かぬ船長じゃのぉ」
「…そんな…私には着替える服もないですから…」
申し訳なさそうな声でルディがそう呟くと、サルマスはむっとしたのか眉間にしわを寄せた。それから扉を開けて、廊下に顔をひょこっと出して大きな声で叫ぶ。
「アルディオン、アルディオン!例のものを持ってくるのじゃ!」
偉そうなその声に答えるようにアルディオンが廊下の角から姿を現した。
彼は両手で小さな木のクローゼット棚を持っていて、それをサルマスの命令どおりにルディの部屋の隅っこに置く。
「これは…」
ルディが状況を掴めずにぼうっと一部始終を見ていると、サルマスは楽しそうにクローゼットを開けてみた。クローゼットの中身を見て、ルディの表情が変わるのを確認すると、サルマスは満足気にふふんと鼻を鳴らす。
「どうだ、すごいじゃろう」
クローゼットの中には既に二着の女性用の服が並んであった。一つ目は薄桃色の半袖のワンピースで、もう一つは黒い上下に分かれている袖のない服だった。黒い服の方は、上下がちょうどお腹が見えるように分かれてはいたが、黒いリボンがクロスするような形で、上下を一着の服のように止めてあった。
「…気に入っただろう?わしが命令してアルディオンに作らせたのじゃ!」
サルマスが偉そうに胸を張ると、アルディオンが彼の隣で首を縦に振る。その時仮面から覗く琥珀色の瞳が優しい光を放っていた。
「…ありがとうございます」
ルディは少し戸惑ったが、サルマスが踏ん反り返っているのを見て嬉しそうに微笑む。彼の好意は素直に受け取った方が、彼が喜んでくれると思ったからだった。それにルディ自身も本当に嬉しかった。昼食を作っているときにはリオとお菓子の会話で盛り上ったし、夕方にはサリューが天候の話を聞かせてくれた。
「本当に…ありがとう…」
自然とぽろぽろと涙が目に一杯に溢れてきて、ルディ自身が困ったくらいだった。綺麗な雫の勢いは止まらなくなり、やがて雫が小さな滝のように変化する。その時にはもう息も漏れてきて、小さな泣き声が静かな部屋の中に響いた。サルマスは困惑した表情でアルディオンに一度視線を向ける。しかし、アルディオンは何も反応しなかった。
「…そんな反応を期待したわけじゃないのだぞ」
オロオロしながらルディの方へ視線を戻すと、サルマスは自分の服の、袖の中に手を入れて、そこに閉まっていた何かを取り出した。それは古びた木の杖で、杖の先端には満月の月をそのまま小さくしたような蒼白い宝石がはめ込まれていた。
「いいことをお主に教えてやるから、もう泣くのはやめるのじゃ」
それでもルディの涙はなかなか止まらなかった。
「…わしが手に入れた禁じられし古代の力…第一の秘密の門…カードの鍵にて今開け!」
「!」
ルディの部屋の中に眩いばかりの明るい光が満ちた。それは一瞬だけで、すぐに瞼が開けられる状態へと戻る。サルマスの杖は妖しい光を緩やかに放ちながら、静かに小さなカードたちへと変化していった。それは遠い昔、ルディも一度だけ見た事があるカードだった。
「タロットカードじゃ」
「……」
さも自慢気にサルマスが踏ん反り返る。ルディは唖然として涙の事など忘れて見つめてしまっていた。あれほどすごい光を放ちながら、出て来たのはタロットカードだけである。
「どうじゃ、すごいだろう!わしのタロット占いは百発百中なのじゃ!」
「…う、うん。それはすごいね」
今一信用してない声でルディが曖昧に頷くと、サルマスは不機嫌そうに自分の手にあるタロットカードを見つめる。
「…こんな姿にされて、時を止められて…。それに加え、手に入れた力がこれだけだと思っているのだな?…ふん、もちろんこれだけじゃないのじゃぞ?ちゃ〜んと、もっとすごい力だって…」
サルマスはそこまでいうと、急に口を閉じてルディを見つめた。
「信用してないのなら、信用させるまでじゃ!」
「あ…」
ルディは慌てて言葉を返そうとしたが、サルマスの急に真剣な表情に言葉を失った。幼い姿をしているはずなのに、そこにいるのはそんな可愛らしい少年ではなかった。長い睫毛を下に向けながら、白いシーツの上にカードを並べていく。たった七枚を並べただけだったがサルマスの額に汗が滲んでいるのがわかった。
『複雑に絡んだ愛情。芽生える淡い恋心と…思惑。一つ一つの歯車をかみ合わせる。それから…逃げられる事のできない鎖…』
サルマスの淡々としたカードの意味を読み上げた声にどきりとルディの胸は音を立てた。特に最後の『逃げられる事のできない鎖』という言葉に脳裏にリアルな感覚が甦る。いつしか名前で呼ばれることもなくなり、ルディは冷たい声でこう呼ばれていた。『処女姫』と…。
「…そろそろ…くるな」
ジェイは珍しく甲板に立つと大きな柱にもたれながら独り言を呟いた。手には虎之助が計算して割り出した、天候変化の予想図の紙が握られている。昨晩、スカイから『鳥が嵐を伝えています』という言葉と虎之助の予想図を受け取ったところだった。遥か向こうの海原が少しだけ荒れている動きを見せているのが判る。
「どうだ、サリュー。大きいのが来る予定なんだが」
「…うん。風がざわめき出したよ…。明日の昼過ぎには…ぶつかると思う。でも、それよりも…」
「それよりも?」
ジェイはサリューのその言葉に不思議そうに眉をひそめた。それからサリューがいる見張り台の方へと顔をあげる。
「…それよりも問題なのは…」
サリューは慌てて見張り台から甲板へ飛び降りた。
「巨大クジラの群れだ!…あいつら、何かから逃げてきているみたいだ!嵐とは…反対方向みたいだけど、明日の昼前にはぶつかる!…砲弾の音も聞こえたから…きっと捕獲されそうになっているところを逃げてきているんだと思うけど…」
「そうか」
あくまで落ち着いた態度でジェイは頷く。ジェイの灰色に近い薄紫の髪が風に揺らいだ。サリューはジェイの返答を聞く前に階段の前まで走っていく。
「とりあえず、皆には知らせてくるから!船長はどうするか考えていてよね!」
「あぁ…」
苦笑しながらジェイは軽く頷いた。ジェイが進行方向を変えることがないのはサリューも十分承知である。だから、対策を考えるように急かしたのだった。ジェイは一度深い溜息をつくと、ズボンの後ろポケットから煙草の箱とライターを取り出す。そして箱から一本だけ抜き取ると、口に咥えた。小さな炎が揺らめき、真っ白い煙が甲板の上を流れ空に吸い込まれていく。
「…やれやれ。明日は忙しくなるな」