第三章、前兆
「ふはははっ!大猟だな!兄貴!」
大きな騒音とともに、馬鹿みたいに大きな声が静かで穏やかだった海原に響き渡った。
「あぁ、これでこいつらをアイゼンガルドの野郎に献上すれば、好きなだけ女がいただけるってもんだ」
「そうだよな!うっし、…てめぇら、しっかり働け!」
見分けのつかない大柄のスキンヘッドの男二人が声を張り上げる。その声に答えるかのように筋肉が取り柄だと思われる数十人もの男たちがそれぞれに叫びだした。砲撃の音もだんだんと強くなっていく。昨夜から続いたこの追いかけっこに、さすがに逃げる側だった巨大クジラたちも切り裂けそうな悲痛な悲鳴を上げた。しかしクジラたちは、これを脱出する機会を得る為に必死に泳ぐのを止めようとはしなかった。太陽がもうすぐ自分たちの頭の上にくる。彼らはただそれだけを待っていた。
「…派手にやってるっすねぇ」
虎之助が望遠鏡を覗きながらそう呟くと、彼の隣にいたドクター・ディが白衣のポケットに入れていた手を出し大きく空に空振りさせる。
「あいつらは全く判っていない、貴重なんだぞ!巨大クジラのような特殊な進化を遂げた巨大生物達は!」
冷静なはずの彼に似合わない荒々しい口調。眉間のしわが深いところから彼がイライラしている事がわかった。
「…貴重だからっすよ〜」
その言葉にドクター・ディはギロリと虎之助を睨みつける。ドクター・ディの眼鏡が太陽の光を反射して、さらに彼の視線を鋭く見せた。
「全く…船長命令がなければ俺は今すぐにでも馬鹿者どもの頚動脈を切り裂いてやるところだ!」
虎之助はドクター・ディの真っ白い白衣を見つめながら、つっこみを入れたかったがこれ以上は何も言うまいと黙って望遠鏡を覗く。ガラス越しの向こうの世界では、飽きずに巨大クジラの捕獲が続いていた。そして少しだけ望遠鏡の位置をずらすと、蠢く黒い雲が目に取れる。黒い雲は風の流れに乗ってゆっくりとこちらに向かってきていた。それを見ながら虎之助は手に持っていた計算機を打ち出す。
「…クジラたちが嵐を呼んでいる…」
抑揚のない声がそこに響いた。人形のような綺麗な少年―スカイだ。感情のない水色の瞳が真っ直ぐに彼方にいるクジラたちを見つめている。
「サリュー、今二匹の子供が殺されたね…」
「うん…。たぶん…大きなお母さんクジラの方が捕まったと思う」
見張り台の上からサリューの悲しそうな返答。スカイはそっと瞼を閉じた。まるで、耳でクジラたちの悲鳴を聞いているようだった。それを見てドクター・ディも湧き上がる怒りを必死で抑えながら、黙って海の向こうを見つめる。甲板には虎之助の計算機の音だけが静かに響いていた。
「そんな難しい顔をしないで欲しいですねぇ。私もね、ちゃんと心は痛んでいるのですから」
暫く続いた沈黙を破ったのは、いつの間にか船長室の扉の前にいたシフォンだった。にこやかに微笑み、少しだけ胸を押さえる演技をすると、シフォンは虎之助に声をかける。
「計算は終わりましたか?」
「あぁ、大丈夫っす。もうそろそろ来ると思ってたっすから」
虎之助がにっと笑うと、シフォンも微笑み返した。それからシフォンが片手をあげ、扉横にあったスピーカーマイクを取る。
「さぁ…船長命令です。ボートを出し…そこにサルマス、私が乗ります。私たちがまずやつらの気を引いているうちに、残りのメンバーはこの船をやつらの船に近づけなさい。そして奇襲を。…できるだけ早く、嵐が来る前にさっさと終わらせるのです。…その後は」
シフォンはそこで虎之助に視線を向けた。
「虎之助の指示に従うように」
「…任せるっす」
虎之助が大きく頷く。その時、湿気の多い風が甲板を駆け抜けていった。
「いやじゃあーっ!」
サルマスの大きな怒鳴り声が船内に響いた。サルマスの目の前には薄い布で作られた可愛らしい少女用の服がある。
「文句を言わないで着なさい」
顔は優し気な微笑みを作っているが、シフォンの口調は氷よりも冷たかった。サルマスは助けを求めるように隣にいるアルディオンをみたが、アルディオンはそっと首を横に振るだけだった。
「ほら、何も貴方一人に対する仕打ちじゃありませんから」
そう言ったシフォンは既に女性用の服を着ている。後は化粧を済ませるだけで、男だなんて誰も気づかないだろう。元より女性に近い容姿だからだが。
「うぅ…お主は元々、それで商売していたのだからいいではないか…わしは…わしは」
「私は、ですよ」
冷たい瞳がサルマスに突き刺さる。
「……」
蛇に睨まれた蛙のように、無言で溜息をつくとサルマスはしぶしぶと服を着替えるのだった。
ちょうど、サルマスとシフォンが木で作られたボートに乗り、船から離れるところだっただろう。そこへルディが走ってやってきた。昨夜サルマスからプレゼントされた黒い服を着ている。
「…どうしたのですか?」
「あ、あの…ジェイさんから聞いたんです。…女装してお二人が囮になるって…だから」
ルディの言葉にシフォンは軽く溜息をついた。
「…ジェイがダメだといったことを私が認めるとでも?」
「!」
ルディははっと顔をあげる。どうしてこの人はこんなにも見ていない事をさらりと当ててしまうのだろうと考えたのか、不思議そうな顔だった。それを見てシフォンは楽しそうに軽く笑う。
「ふふ…そうですねぇ。そこからこのボートへ飛び乗ってきたなら…私はもう引き返せませんしねぇ」
「なっ!お主何をいっているのじゃ!…危険を伴うのだぞ!」
サルマスがシフォンに怒鳴るが、そうしている間にもボートと船の距離は離れていく。ルディは小さく頷いてから、勢いよくジャンプした。助走はなかったが、ルディはちゃんとボートの上に着地する。ボートは軽く揺れたが、それだけだった。サルマスは唖然としていたが、シフォンが肩を震わせて拍手したのを見て我に戻った。
「お主、落ちたらどうするのじゃ!それに…囮になるじゃなんて」
「足手まといにはならないようにしますから」
軽く申し訳なさそうに眉を曲げてからルディはサルマスにそう言った。シフォンの方はボートのオールを静かに動かしている。ボートがある程度、巨大クジラを捕獲している海賊たちの船に近づいた時。
「…もうすぐ…近づきますから、ローブを着用してください。それから…」
――バキィッ
小さな音を立て、二つのうち一本のオールが割れた。いや、シフォンの手によって壊されたのだ。
「…やつらの目を船長たちからできるだけ外させるように」
ルディとサルマスは小さく頷くと、ローブを頭から被ってボートの冷たい床に横になる。波の音が耳に入ってきてルディは不思議と落ち着いていた。
巨大クジラが悲鳴を上げる。何匹かが海賊達の捕獲網に捕まったようだ。
「おい、あのボートはなんだ?」
暫くしてやっと気がついたように低い声がルディたちの乗っているボートを指差した。
「あぁ…お助けください…」
よろよろとそう細い声を出したのはシフォンだった。誰が聞いても男だとは思えない綺麗な声。その声に海賊達の手が止まり、ボートに目を向けた。
「お願いします。…水を下さい。
どうかお強い方々…私たちをお助けくださいませ」
「…っ、ボートを引き上げろ!」
大柄のスキンヘッドの男がそう叫ぶと、ボートは海賊達の船の甲板へと上げられた。海賊達は巨大クジラの捕獲を止め、ボートを囲むように甲板に立つ。それを見て一瞬シフォンの口元がふっと緩んだが、顔をあげた次の瞬間には元に戻っていた。
「こんな海の真中で何をしていたんだ?」
「…私たち姉妹は…逃げていたのです。…海賊の皆様ならお判りでしょう?私たちは自由を奪われたくはないのです…だから…。ですが、水も食料も尽きてしまって…そのまま海を彷徨っていたところでした」
シフォンの言葉にルディとサルマスも同意するように頷く。ローブの下から周りにいる海賊達を覗き込むと、どの男たちも肉体の鍛えられた屈強な者達ばかりだという事が判った。
「な、なぁイン兄貴…ひ、久し振りの女だ、だよな?」
激しく動揺しながら頭領だと思われる先刻のスキンヘッドの男と同じ顔をした男がそう言った。
「あぁ、そうだな。ユン」
どうやら二人は兄弟のようだった。
「こ、こいつら…アイゼンガルドに売ったら…」
「…待て。わざわざ引き渡す事もない。
こいつらのことなんて報告しなければ誰にも判らないんだからな」
インの言葉に偉く感心したようにユンは大きく頷く。
二人のスキンヘッドの男たちは顔や体型は似ているが性格と頭の中身は全く違うようだった。
「私たちも…」
「ん?」
「できる限りの事はいたしますから…どうか」
するり…と薄い衣の擦れる音がし、海賊達の荒い鼻息がもれた。シフォンが藍色のローブを脱いで肌を見せたのである。肌を見せたといっても肩や脹脛を見せただけだったが、長年女を見ていない彼らにとっては、十年前のこの世界で裸の女を見せられたのと同じ興奮だったに違いない。さらに深呼吸してからルディとサルマスもローブを脱いだ。その瞬間、船の上に大きな歓声の声が響く。中には口笛を吹くものもいて、彼らの興奮は絶頂に近かった。
「…ふん、いい覚悟だな。…では、俺はお前の妹を頂こう」
シフォンの顔を少し見つめてから、インは大きな手でルディの細い腕を掴んだ。そして力で引き寄せてルディの小さな身体を抱く。一瞬シフォンの瞳の色が変わったが、彼の腕もインの弟―ユンの手によって掴まれた。
「俺はあんたのような色っぽい女が好きなんだ」
「まぁ、嬉しい」
シフォンがうっすらと微笑みを浮かべる。
「残りの一人は…お前達が可愛がりな?」
「うおぉぉぉぉー」
「なっ」
周りの男たちの歓声を耳にしてサルマスの顔色が一瞬にして青白くなった。しかしシフォンに冷たい視線を向けられてサルマスも慣れていない作り笑いをする。
「…そういえばお前は綺麗な瞳と髪をしているんだな?」
ルディはインの鋭い瞳にどきりとした。
「お前達、本当の姉妹じゃないだろう?」
「…え、えぇ…確かに本当の姉妹じゃありません」
瞳と髪の色も違うのだから、シフォンの嘘には無理がある。けれども、ルディはそれを本当の嘘にしなければいけなかった。声の震えを必死に抑えながら、嘘を繕っていく。
「私たちは孤児院で育ったのです。だから…」
その時だった。視界の端に一隻の船が入って来た。ジェイの船に間違いない。ルディは少しはらはらした。その船の姿をこの海賊達には見せてはいけないのだ。サルマスの方は大勢の海賊達に囲まれ、無理した笑顔で男たちの腕に掴まらないようにしている。シフォンの方もユンを甲板の床の上に座らせて、その横でお酌をくんでいた。
「そうか…辛い人生を送っているな」
インがそう言ってふっと目線を海に向けようとした。ルディはハッとする。その方向には船がいるのだ。
「インさん!」
「ん?」
ルディが悲鳴に近い大きな声を出し、インの腕を強く引っ張る。その声にシフォンもサルマスも顔を彼女に向けた。
「……お前…」
小さな沈黙の後、インがルディの瞳を見つめる。彼の唇には柔らかな彼女の唇の感触だけが残っていた。彼の言葉に答えるかのようにルディがつらそうな表情のまま微笑んだ。
「ごめんなさい」
激しい爆音が響き渡り、船が揺れる。インがはっと顔をあげた頃にはルディの白い手はシフォンに引っぱられて、インの元から離されていた。サルマスの方も男たちが気をとられている間にその場から離れている。
「逃がすなっ!」
インがユンを含む手下達に叫んだが、時は既に遅かった。三人の姿は甲板から消え、変わりに二人の男が立っていたからだ。二人は甲板の細い木の壁の上に立っている。
「残念でしたっすねー」
赤のメッシュの入った黒髪を潮風に当てながら、虎之助はにぃっと白い歯を見せて笑った。
「ちなみにクジラさんたちは逃がしたっすから〜」
「…今度同じ事をしたら、その頭が首から上にあると思うなよ」
白衣を風に揺らしながら、ぎろり…とドクター・ディが海賊達を睨む。
「…お前ら、何者だ!」
ユンの方が今度は怒鳴った。
「自分らっすか?…自分らは」
「船長ジャスティスが率いる…リベリオン海賊団だ」
「…お前達が」
インが小さく呟く。彼の手下達が虎之助とドクター・ディに勢いよく飛び掛ったが、その攻撃は二人には届かなかった。二人は自分たちの船に結んであるロープを手に握っていたらしく、そのままインたちの船から飛び降りたのだった。
「イン船長!巨大クジラたちが全部逃げました!」
「船長!やつらの船を追いかけますか?」
「船長!西南の方角から黒い雲の塊が…嵐です!」
インは弟のユンの方を一度見てから、軽く溜息をついた。眉間にしわは寄っていたが、その表情は柔らかい。
「…完敗だな。…巨大クジラは放っておく。やつらは嵐の中に逃げた。」
それから、自分の唇に触れるとふっと笑った。
「…面白い。あのふざけた海賊団を追いかけるぞ!」
ルディがシフォンたちと船に戻った時に待ち構えていたのは、ジェイの無言の壁だった。ルディに声をかけるわけではない。ただ、何も言わずにじっと彼女の前に立ち、そして彼女を見つめているだけだった。
「ごめんなさい」
暫くしてから、震えたような細い声でジェイの顔色を窺う。
「…何がだ?」
「ジェイさんの言葉を無視して、勝手な事をして…」
ぽつぽつと降り始めた雨粒のように言葉を口に出すルディに、ジェイは心の中で溜息をついた。
「自分で決めたことだ。責任を負えるなら、それでいい」
そう言ってから、ジェイは軽くシフォンを睨む。シフォンの方は、全く気にしていないようにそれを無視した。
「お二人さん、いいっすか?」
ルディとジェイの間に入って来たのは虎之助で、彼の言葉にジェイは軽く頷いた。
「予定通り、後は任せるぞ」
「了解っす」
元気のいい返事に安心そうに笑ってから、ジェイはルディに向き直る。
「というわけだ。君は自室に戻っていなさい」
その言葉にルディが小さく首を縦に振った時、甲板の床の上に大きな雨粒が落ちてきた。ルディは階段を降りてその入り口にある床扉を閉めながら、ぼうとした意識の中に身を寄せる。
嵐がやって来る。
冷たい嵐が。