第四章、不吉な王の影と


 嵐がやって来る。冷たい嵐が。

 アイゼンガルドの一番の下僕クローズは冷たい石の廊下を、息を切らしながら早足で歩いていた。この廊下はただでさえ息苦しい。何故なら、廊下の突き当りにはあの方の寝室があるからだ。クローズの主。冷血のアイゼンガルドの寝室が。

「早くしないと血の雨が降るぞ!」

 クローズは廊下の隅にある姿見の鏡を睨みながら怒鳴った。

「判っているのか?クローズ!必ずあの女は生きている」

 荒々しい呼吸で続けると、鏡の中の彼は答える。

「…判っている。なんとしても、あの女を見つけないと」

 その瞬間、要塞の外に雷が落ちるのが判った。

「嵐がやってくるぞ…。冷たい…血の嵐が」

 廊下中に外の雷の比にはならないほどの悲鳴が響く。耳が割れてしまうほどの高い音域の女の叫び声。その声はすぐに途絶えては、また違う女の悲鳴の繰り返し。クローズは鏡に抱きつくと小刻みに震える身体を必死に抑えた。

「…あの女を…あの姫を見つけるんだ。早く…」



 船は激しく揺れていた。

 ルディの部屋の小さな窓から見えるものは黒い空と不透明な海。それからその境界線を走る光の跡。

 びくっと、低い空の唸り声にルディは髪を跳ねさせた。闇に浮かぶ雲のシルエットがルディの目に映る。雨音と波音が混ざり合った水の音。その水音が、彼女の耳の傍でフェードアウトをしていく。

 大きく船が右に傾いた。人形のようにルディは部屋の壁に頭を打つ。耳が痛かった。

「…いや」

 閃光を放つものがまた落ちたらしく、騒音が響く。壁にもたれかかるようにしてルディは身体を小さくした。

「お願い、やめて!」

 誰かにすがるように細い悲鳴をあげる。頭の中に染み出てくる声。何度も自分を求めるくせに、その声は決して名前を呼ぼうとはしなかった。

 だから忘れてしまう。

 自分が誰だったかを。

 だから忘れてしまう。

 自分が何だったかを。

 あの人はいつも冷たい手で、恐ろしさで震えるほど冷たくなった身体に触れる。そんな事をしても温もりなど得られるはずもないのに。硝子玉のような涙が零れ落ちると、その行為はピリオドを告げた。それの繰り返し。

「お前、何してるんだ!」

 ルディは突如現実に戻された。徐々に水の音も耳に入ってくる。

「…クライヴ…さん?」

 彼女を現実に引き戻した先刻の声の主はクライヴだったらしく、ルディの腕を力強く握っていた。今まで甲板にいたのか全身が濡れている。ルディはそこでやっと、自分が自分の部屋ではなく廊下にいることに気づいた。

「雷…恐いのか?」

「え…?」

 いつも長い前髪で隠されている瞳が今ははっきりとルディの表情を覗いていた。少し戸惑っているような困惑しているような色をしている。

「だって…それ」

 クライヴは自分の頬を指で縦に直線を描いた。ルディも同じように真似をすると、自分が涙を無意識に流していた事に気づく。

「あ、これは…」

 否定しようとしたとき、いままでにない稲妻の轟音が鳴り響いた。ルディの顔色が一気に蒼白に変わり、頭の中がぐるぐると廻った。そして低い男の声がルディを捕らえる。とても冷たい声。

「ルディ、…ルディーナっ!」

 ルディははっと瞳を大きく見開いた。すぐ目の前にクライヴの綺麗に整った顔があり、蒼い瞳が心配そうにルディの深紅の瞳を捕らえている。ルディは呆然とその瞳から視線を外せなかった。両肩にクライヴの手が置かれていて、しっかりとルディの身体を支えている。

「…大丈夫か?」

「今…」

 ルディは小さく唇を動かした。それを見てクライヴは急に頬を赤らめ、ふっと目線を外す。そしてそこでクライヴは眉間にしわを寄せて動きを止めた。

「ふっふっふ。K少年は嵐の中で大人になった。…ヴァイン様の手記より」

「…頼むから一度死んでくれ」

 クライヴの視線の先にはヴァインが立っていたのだ。彼は楽しそうにわざと肩を竦める。そしてルディに視線を向けた。

「ルディ、とりあえず独りが恐いなら俺の部屋に来るかい?どうも、独りで飲んでいてもつまらなくてね。」

 軽くウィンクしたヴァインの片手には食堂から掠めてきたのか、ワインボトルが握られていた。

「…てめぇ、またサボる気だな」

 クライヴが鋭く睨むと、ヴァインはさっと彼の横を抜けルディの肩を抱き寄せる。ルディの方は驚く間もなかった。

「別に取って食いやしないさ。第一、お前の方こそさぼってんじゃねぇの?」

 ヴァインの言葉にクライヴの体中の血液が沸騰したかのように赤くなった。

「誰がだ!…俺は倒れたリオの看病をしにきたんだよ!」

「リオさん、大丈夫?」

 ルディは心配そうにクライヴの顔を見つめる。

「あぁ、全然平気」

 クライヴは続けて溜息を大きく吐いた。

「…いつも通り船酔いだから」

 それを聞いてヴァインの方も軽く頭を抑える。どうやら二人とも呆れを通り越して何も言葉が出ないらしかった。

「…私も」

「ダーメ」

 ルディがクライヴにリオの看病を申し出ようとした瞬間、それをヴァインに軽く遮られてしまう。

「君は俺の相手をしてくれなきゃ。だから、ダメ」

 わざとなのかヴァインはルディの耳元で囁くようにそう言った。そうされたルディは急に身体が硬直してしまう。肌でヴァインの息遣いを感じて、それが一筋の電気のように背中に流れたためだ。

「…じゃあ、俺は行く。ヴァイン、後で船長に報告するからな」

「はいはい〜」

クライヴの不機嫌そうな声とは違い、ヴァインは楽しそうに見送る。

「さてと。これで邪魔者は消えたわけだけど」

 切れ長の瞳がすっとルディに向けられた。

「…少し、昔話でも聞かないか」





 その日は満月の夜。

 雲ひとつない濃いダークブルーの空。そこにくっきりと浮かび上がる丸いシルエットがとても美しかったのを覚えている。星たちの瞬きもより一層綺麗で、気まぐれに流す星屑の涙も強く心に残った。そんな夜。

 夕刻まで一緒に遊んでいた悪友の姿が見えなくなったから、村中を走り回って捜していた。村というフィールドで隠れんぼをしても隠れた全員を簡単に見つけ出すことのできる小さな村だったから、悪友はすぐに見つけることが出来た。だけど声を掛ける事は出来なかった。

 闇に溶けるような黒い髪が風に流れている。艶やかなその髪が自分の心臓を強く縛り付けたような気がした。痛い。心臓が苦しくて痛くてしょうがなかった。

 そっくりそのままくり抜いて浮かべたような満月が、水面からこちらをじっと見ている。いや、こちらじゃなくあちらか。ふいに大人びた声が聞こえた気がした。あちらとは悪友だ。悪友と彼女の姿を見つめているのだ。その証拠に水面には二人の姿も映っている。反射した光が触れるか触れないかの距離で二人を包み込んで、こちらとは違う世界を作り上げている。本当に綺麗で、目が熱くなった。何かが溢れ出ようとしてきたけど、必死で堪える。水分の多くなったフィルターから見るその光景は余計に美しかった。

 彼女がそっと悪友の手を握り締める。彼女の手は柔らかい。普段の彼女の手も柔らかかった。だから、あんな景色の中で握る彼女の手はもっと柔らかいに違いない。悪友は照れた仕草で前髪をいじってから、彼女に優しい微笑みを向けた。彼女の方もまた柔らかな微笑みを浮かべる。そして大きく彼女の黒い髪が揺れた。心臓を縛るように巻きついていた髪が鋭利な刃物に変わった気がした。そして全てが壊れていく音が響く。

『…愛している』

 二つの唇が離れてから、悪友の幸せそうな声が聞こえた。もう何も見えなかった。ダムを破壊して大量の水が溢れ出てきたのだ。もう調整する事が出来ない。調整する事が出来ないから、止める事も出来なかった。

 彼女に淡い恋心を抱き始めたのはいつだっただろう。幼なじみという枠から外れたのはいつだったのか。あぁ、もうそんなことはどうでもいいか。妙に大人ぶった声が思考回路を停止させ、別の回路を回し始める。三人の幼なじみの内、二人が恋人同士になった。良くある話だ。だから裏切られたとか、そんなことはどうでもいい。いつも通りの調子で、いつも通りの自分で。限りなく二人を祝福しよう。限りなく偽りの自分を演じつづけよう。気持ちだけ伝えたいとか、そんな馬鹿にはなりたくない。それは愚か者のすることだ。ぐるぐると頭の中で何かが回っていた。覚えている事は、相変わらず満月は美しかった事。それだけだった。

「…私は」

 ヴァインの話を遮るようにルディが口を開いた。話をしていたヴァインは言葉を止め、聞き入るようにルディを見つめる。

「気持ちを伝える事が…愚かだなんて思いません」

 小さな音だったが、ヴァインにはちゃんと聞き取れた。彼はワイングラスに残っていた少量を飲み干してから、ルディに微笑む。

「君ならそう言うと思っていた。…その時の俺は子供だったんだ」

 ヴァインは空になったグラスに深紅の赤ワインを注いでいく。

「後悔したよ。…彼女の時が止まってから」

 部屋の中の灯りが少ないせいなのか、外の嵐が原因なのか、ワイングラスの注がれていく赤ワインが血のように見えた。そうあの時、悪友が抱きしめていた彼女の頭から流れ出ていた血液。首から下のない彼女の頭を抱きかかえて泣いていた悪友の体中にべっとりとついていた液体。紅く赤くどこまでも血生臭かった。そしてそれは村中に広がっていた。いくつもの悲鳴と死体。突然の来訪者は気まぐれに人を殺しては気まぐれに生かしてみせる。それはまるで神か悪魔の狂宴。

「始まったんですね…。あの人―アイゼンガルドの…」

「腐った時代がね」

 ヴァインは吐き捨てるように言った。ルディは何を言ったらいいのかわからないまま、ヴァインを見つめる。ヴァインの肩越しにある窓の向こうでは嵐の王が荒れ狂っていた。

「彼女は…悪友の目の前で何人もの海賊達に犯され、最後にアイゼンガルドに首をはねられたらしい。…俺はその場にはいなかった」

 好きな人の最期に傍にいられなかった苦しみ。助ける事も出来なかった苦しみ。親友が背負ってしまった悲しみを理解できるのに口に出せない苦しみ。そんな色々な苦しみがヴァインを今も苦しめているのだろうか。ルディは何故だか急にヴァインが小さな幼子のように見えた。彼の赤い髪を優しく撫でてから、彼を抱きしめてあげる。

「君は…」

 そんなルディの行動に苦笑しながら、ヴァインは暫く甘える事にした。絹のような柔らかな彼女の髪が自分の肩にかかっているのが気持ちいい。違う生き物のような感触がした。男では考えられない、女性特有の甘い匂いもする。か細い腕から伝わるのは確かな温もりだった。

「ルディ…」

 ヴァインが囁くように彼女の名前を口にしようとしたとき、船が大きく揺れた。今までの揺れとは比べ物にならないほどの大きさだ。ルディは小さな悲鳴を発して、後に倒れた。幸いルディの立っていた後はベッドで、怪我をするようなことはない。

「ルディ、大丈夫か?」

 今まで座っていたイスから腰をあげると、ベッドに仰向けに倒れているルディの横に腰を掛けた。そして覗き込むように、斜め上から覆い被さる。

「あ、あの、平気です」

 すぐ目の前にヴァインの顔が近づいてきたので、ルディは恥かしそうに笑って見せた。しかし、それは逆効果だった。ヴァインは少しだけ意地悪そうに笑うと、ルディの髪を撫でる。

「そうかな…顔が赤いから、熱が出たんじゃないか?」

 ヴァインは自分の額をルディの額と重ねる。その瞬間、ルディはもっと赤くなった。

「私、熱なんてありませんから!」

「じゃあ、どうして顔が赤いんだろうね?」

 額を重ねたまま、囁くようにヴァインが言葉を紡ぐ。これは先刻うかつにも甘えてしまったヴァインの反撃だった。ヴァインは楽しそうに心の中でくすくすと笑いながら、ルディの瞳を見つめる。大きな瞳もこちらを困ったような色で見つめている。その瞳に映っているのが今は自分だけだというのが、妙に嬉しかった。あぁ、もしかして俺もリオやサリューをからかう事ができなくなっちまったか?ヴァインは心の中で溜息混じりに苦笑する。

「ルディ、どうやら…君に恋してしまったみたいだ」

「ヴァインさん!」

 耳元で甘い囁きを受けて、ルディは小さく叫んだ。

「からかうのは止めてください」

 可憐な音色がヴァインの視線から外れるようにそう続ける。これにはヴァインも言葉が出なかった。どうやら本気で愛を囁いてみたのに相手は気づいてないらしい。これはあの時よりも前途多難かもしれない。

「…言葉で判らないなら、行動か」

 過去の教訓から、とでもいうようにヴァインはルディの唇を軽く指で触れる。それから優しいキスを浴びせる。ルディの抵抗も、三度目のキスになるとなくなっていた。甘くて気だるい感覚がルディの中に流れる。

「天誅っす!」

「なっ」

 ドスっという響きとともに、ヴァインがルディの上に倒れこんだ。しかし、すぐにルディは誰かの手によって、そこから救い出される。

「…大丈夫か?」

シャラン…と小さな鈴の音が微かに耳に届いた。

「…クライヴさん」

 クライヴの心配そうな顔を見るのはこれで何回目だろう。ルディはぼんやりと考えてから、はっと我に返った。

「あ、ヴァインさんは」

「手刀を浴びせたから、悪漢は退治したっす」

 そしてそこで、クライヴの後にいた虎之助の存在に気がつく。彼は魔王を退治した勇者のような感じでポーズを決めていた。ベッドの上にうつ伏せに倒れているヴァインの姿がある。

「嵐で人手が足りなくてあいつを呼びに来たんだが」

 クライヴはイラついた口調でヴァインの方をちらりと見つめた。

「あの時、止めてればよかったな」

「あのなぁ…」

 うつ伏せに倒れていたヴァインが首の後を手で抑えながら起き上がる。

「お前ら、俺を殺す気か」

「ルディさんを襲ってたじゃないっすか」

 虎之助の言葉にルディは自分の唇に触れる。思い出そうとすると、体温が少しずつ上昇していくのがわかった。

「あれは襲ってたんじゃ…襲ってたのか」

 ヴァインは唸るように考えてから、ルディに視線を向ける。

「そうそう、さっきの昔話の続きだが…」

 急に自分たちの判らない話を持ち出したヴァインを虎之助とクライヴが怪訝そうに見つめた。

「最愛の人を失った俺の悪友は海賊になるんだ」

「…え?」

 ルディは予期もしない言葉に真っ直ぐにヴァインの瞳を見る。

「もちろん、俺も一緒にだが。

あいつは自分の名前に従うような行動をとったのさ。あいつはあの名前を嫌ってはいるが…」

 ヴァインは虎之助とクライヴの二人を交互に見回してから続ける。

「あいつは今も亡き恋人の面影を追っている。アイゼンガルドの所為で失われた左眼が痛むたびに思い出すんだ。彼女の最期の声を」

 それに…とヴァインは言葉を添えた。

「あいつだけじゃない。この船全体が復讐という風で進んでいるんだ」

 ルディは息をするのも苦しくなってくる。なんて重いんだろう。何千人もの人の命がこの船に乗っている気がしてたまらない。きっと、アイゼンガルドを恨んで死んでいった人たちの魂がこの船に乗り移っているのだ。そしてそれを全てこの船の船長や船員は背負ってしまっているのだろう。

「大丈夫か?」

 クライヴの心配そうな声が聞こえた。

「大丈夫、です…。ごめんなさい…」

 言葉が急に溢れ出る。

「あ、ごめん…なさ…、ごめんなさい…」

 言葉とともに涙も溢れ出てきた。ヴァインが少し慌ててルディの傍にくる。

泣かせるつもりなどなかったのだ。虎之助もクライヴも心配そうに見ていた。

「…俺は馬鹿だな。恐がる話をするなんて」

「違うんです、私…何故だか謝らないといけない気がして…どうして、あの人は…そんなに人を殺していったのに…私だけを生かして…」

 そこまで口にして、ルディは静かな音色を思い出す。『…さぁてね?…ただ…勝利の女神はそろそろこちらに微笑みかけようとしているようですから…』月の光に照らされながら彼は言ったじゃないか。ルディは首筋の数字に手を伸ばした。きっとあの人はこの数字の正しい意味を理解しているに違いない。数字が捺されている意味じゃなく、捺されている数字の意味。なぜなら、彼はこうも口にしていたからだ。『…その夢の前には…きっと、綺麗な衣装も宝石も意味はなかったんでしょうねぇ』と。

 そう、彼だけが私の正体を知っている。そしてそのことをジェイさんにも他の誰にも言っていないということは、自分は彼の切り札なのだ。ルディは頭の中で糸を手繰り寄せるように慎重に考えていく。そして、結論にたどり着いた。彼はルディ自身が知らないアイゼンガルドの切り札になる何かを知っているのだと。

「…ヴァインさん」

 ルディは真剣な瞳でヴァインの瞳を見据えた。

「シフォンさんは…今どこにいますか?」


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