第五章、『処女姫』―前編―



 いつの間にか嵐は過ぎ去っていた。動きの遅い灰色の雲の隙間から一筋の光が落ちる。それはまるで彼女を答えへと導く道標のようだった。

「シフォンさんはどこにいますか?」

 ルディは同じ質問を船長であるジェイに繰り返していた。ジェイの反応を暫く待って、自分の呼吸を整える。そして続けた。

「…聞きたい事があるんです」

 ジェイはルディの後ろに立っているヴァインに視線を向けてから、興味深そうにルディの瞳を覗き込んだ。

「それはシフォンに限定する事かな?」

 ルディの頭が上下に揺れた。真剣な眼差しは相変わらず自分に向けられている。ジェイは気づかれないように軽く息を吐くと、シフォンの姿を頭に掠めた。いつも飄々としていて、決して自分のペースを乱さぬ男。それがこの船の副船長シフォンのスタイルだ。彼が自分の手伝いをしたいと申し出たのは何年も前のこと。普段から謎の多い男だったが、ルディが現われてからは、その割合が増加している。そのことと、彼女の聞きたい事は同じ位置に属する事柄だろう。

「ルディ」

 静かな音で続けた。

「君がシフォンに聞きたい事を俺にも話してくれないか?」

 ルディの肩が小さく震える。ジェイはそっと視界の端で彼女の首筋を見た。おそらくはそれに関する事だろう。そしてルディ自身の存在に関する…

「私に聞きたいと言うなら、私が答えればいいだけでしょう?」

「シフォンさん」

 どこか棘のある口調に阻まれて、ジェイは視線をその主に向けた。いつの間にか船長室の扉は開かれ、その扉の前にシフォンが立っている。ルディは少し戸惑った様子で彼に振り向いた。

「ルディさん、何か聞きたいことがあるようですが…。どうですか?私の部屋で紅茶でも飲みながら…」

 一度、ジェイとヴァインに視線を配りながら、ルディはその言葉に大きく頷いた。それを見てシフォンは柔らかい笑みを浮かべる。

「では、これで私たちは失礼しますよ」

 少しだけ古い音を鳴らして、扉がゆっくりと閉まった。暫くその扉を見つめていたジェイは、同じように立ち尽くしているヴァインを見る。

「…嫌な予感がすると思わないか?」

 消え入りそうな呟きに悪友は無言で苦笑するだけだった。





 ―嵐が過ぎ去る少し前。
 唸るような風の音にリオは重い瞼を持ち上げた。クライヴだろうか。丁重に折り畳まれた白いタオルが額の上にのっている。リオの顔色が良くなったのを確認して、もうどこかに移動してしまったのだろう。部屋にはベッドの上で眠っていたリオ以外の姿はなかった。
 あぁ、またやってしまった。悲鳴にも似た呟きが心の中に漏れた。これで何回目だろう?海賊の一員になったというのに船酔いをするのは。リオは諦めたように情けない溜息をつくと、重い身体をのそりと動かした。重心を掛け間違ってはいけない。少しでも気を緩めると、乱暴な船の動きに足を奪われてしまうのだ。

 リオはしっかりと地面に足をつけながら、部屋の中を見回した。どうやらリオは医務室に運ばれたらしい。古ぼけた木の棚には、名前も判らない薬品が乱雑に並べられている。端にある机の上には重たそうな医学書が開きっぱなしで放置され、椅子には脱ぎ捨てられた白衣がもたれかかっていた。

「しょうがないなぁー…」

 リオは一見几帳面で真面目そうな船医の顔を思い出し苦笑する。あまりにイメージとかけ離れていたため、初めて医務室の有り様を見たとき、誰かが荒らしたのかと勘違いしたこともあった。船の揺れと自分の動きに気をつけながら、リオは薬品の瓶を丁寧に並べていく。さほど時間もかからなかった。

 ギィ…

 リオはびくっと身体を硬直させる。背後で響いた小さな音に恐る恐る振り返った。初めから開いていたのか、それとも船の揺れと同時に開いたのか、リオの背後にあった部屋の扉が少しだけ開いていたのだ。隙間から廊下の暗い灯りが漏れている。その瞬間、隙間に白い影が走った。誰かが部屋の前の廊下を通ったみたいだった。誰だろう?リオは軽い気持で廊下に顔を出す。しかし、その時には廊下には人影がなく、ただ水の雫が地面に点々と続いているだけだった。リオはもう一度医務室に戻り、横切った白い影を思い出そうと努める。

「…あれは…シフォンさん?」





 子守唄が聴こえていた。

 透き通った美しい声が歌っている。どこか寂しげで悲しみを含む音色。

「ごめんなさい…」

 最後にその歌声の主は小さく呟いた。誰に謝っているんだろう。ルディはそっと瞼を上げ、目を凝らした。いつの間に眠っていたのだろうか。ぼーっとする頭を押さえながら、辺りを見回す。

「…ここは」
ルディは信じられなかった。狭い空間。冷たい石の壁。そして鉄格子。船の上でもなく、ましてや海の上でもない。
そこは陸地の上だった。
そしてルディのよく知っている場所…。
「そんな…」
激しい目眩が襲ってくる。
吐き気が腹の底から回って来て、胃の中をぐるぐると何かが駆け巡る。

気持ち悪い…。
気持ち悪くて仕方がない。
この嫌な感じ。
皮膚の間から零れる二酸化炭素さえ、出て行くのを辞めてしまう。
呼吸ができなかった。

「あぁ…、もう気づきましたか…」
「!」
暗闇の中で冷たい響きの声が聞こえ、ルディはびくっと身体を跳ねさせた。
両手首と足首に手枷足枷をはめられたシフォンの姿が、牢屋の隙間から零れ落ちる月の光に照らされて浮かび上がる。
手枷と足枷はルディにも掛けられていた。
「シフォンさん…これは…」
上手く言葉が紡げないままルディは小さく声を漏らす。
その瞬間、シフォンが妖しいばかりの笑みを薄っすらと口元に浮かべた。
妖艶なそれは男だとわかっていても美しいと感じてしまう表情だった。
美しくて残酷な笑み。
「貴女をね献上しないと、なかなか信用を得ることはできなくてねぇ」
「信用って…誰の…」
ルディは自分の言葉がある恐ろしい意味を持つことを理解して、だんだんと音量を絞らせていく。
肩が小刻みに震えてきて、カチカチと噛み合う歯の音だけが自分の中で大きな音を立てていた。
「あぁ…、可哀想に。よっぽど、恐ろしいのですねぇ」
重い枷をつけているはずなのに、シフォンは自然な動きでルディの髪をかきあげ、白い肌の頬にそっと手を添える。
「…落ち着いてください…、ルディーナ?」
棘を持つ言葉が心臓をぷつりと刺してきた。
「あんまり、煩いと襲ってしまいますよ?もっと人生を見捨ててしまうように」
「貴方は…っ」
身体中の震えを我慢してルディは涙目でシフォンを睨み付ける。しかし、その瞬間、シフォンの唇がルディの唇と重なった。強引な口づけが暗闇の中で展開される。ルディの上唇と下唇の間を無理矢理に抉じ開け、シフォンは自分の舌を侵入させた。そうして、嫌がっているルディの舌に絡もうとする。
「…っ!」
「……っ」
がちっと小さな音が立った。
月明かりに照らされた美しいシフォンの唇から、赤の鮮血が一筋の線を描く。
「…ふふ、悪あがきですねぇ」
蛇のような鋭さを持つ視線でシフォンがルディを睨んだ。ルディも負け時と視線を逸らさずに、彼を見つめる。
彼の心の中は上手く読み取れなかったが、シフォンは一瞬だけ苦悩の表情を浮かべて自分の唇の血を拭った。
「…その強がりはいつまで続くのでしょうね…?」

シフォンの意味深な発言の後、慌ただしい足音とその後ろをゆっくりと追ってくる足音を耳にする。
「…お出ましのようですよ…。冷血のアイゼンガルド殿が」
シフォンの言葉を聞いていたはずが、ルディは呆然と長い廊下から伝わってくる威圧感をただただ肌で感じるだけだった。





「そーれで。どうなんっすか?!」
呆れたような虎之助の声が食堂に響いていた。
「うるさい!今、集中しているところじゃ!騒ぐでないわ!この馬鹿もの!!」
「っていって、もう10分以上経過してるじゃないっすか!サルマスさんの占いって今一信用ならねぇっすよねぇ〜」
「だー――!今に見ておれ!この猿がっ!
…禁じられし力、第二の秘密の門、水晶の鍵にて今開け!!」
サルマスが怒りながら、両手を掲げて声を張り上げた。
眩いばかりの光が食堂を覆い、食堂の隅に立っていたドクター・ディですら、目を細める。
サルマスの手の平の中にはいつの間にかすっぽりと収まるサイズの水晶が出現していた。
「…今度は信用できそうだな」
ジェイがぼそりと呟くと、サルマスを膝の上に座らせているアルディオンが大きく首を立てに振る。
「…ほんとうっすか〜?」
それでも今一信用なさそうに虎之助が言葉を漏らすと、その口をスカイが綺麗な手で塞いだ。
「し…。少しぐらい静かにしたらどうですか」
「…うー…」
「そうだよ、虎之助。…これで、ルディとシフォンの居場所がわかるかもしれないんだから」
横からサリューも顔を覗かせてそういった。
この二人からまでそういわれて、仕方なしに虎之助は肩を竦める。もう何を口にしても負けだ。
「…それで?」
クライヴが耳のピアスの小さな音を立てながら、サルマスを眺める。
サルマスの額には大量の汗が滲んでいたが、水晶には一向に何も映す気配はなかった。
「やっぱり、しっぱい…」
「し、少し待て」
虎之助の呟きをヴァインが制した瞬間だった。
水晶球に少しだけ淡い色が映り、それが人の形へと変化していく。
「…これは…」
ジェイが冷静な声のまま重い腰をあげる。

水晶が映し出した映像はあまりにもリアルな描写。
ぐったりとしているルディの身体を抱き上げるシフォンの姿がボートに乗る。そして彼らが乗ったボートは大きな海賊船に拾われた。しかも、シフォンとその海賊が親しげに話し、握手を交わしたのである。その海賊団の旗は――
「…この女神を食い潰している髑髏マーク…は、冷血のアイゼンガルドの直結の海賊団…」
「『デプラヴィティ』…か」
ヴァインとジェイは顔を見合わせて、二人で同時に苦笑するのだった。


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